摘要ノート「資本論」(8)

第三章 貨幣または商品流通

第二節  流通手段

諸商品の全面的交換は,商品の形態変換によっておこなわれる。商品の形態変換は、諸商品の交換過程に含まれる矛盾の運動形態である。そして諸商品の形態変換は、貨幣に流通手段という形態をあたえる。ところが、流通手段は商品価値の一時的な過渡的な姿にすぎぬという事情のために、流通手段としての貨幣の機能から貨幣の鋳貨たる姿と価値章標がうまれる。

a 商品の変態

[118] すでに見たように、 諸商品の交換過程は、矛盾した互に排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を解消しないが、それらの矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす。これは、一般に現実の矛盾が解決される方法である。たとえば、一物体が絶えず他の一物体に落下しながら、また同様に絶えずそれから飛び去るということは、一つの矛盾である。楕円は、この矛盾が実現されるとともに解決される諸運動形態の一つである。

[119] 交換過程が諸商品をそれらが非使用価値であるところの手から、それらが使用価値であるところの手に移すかぎりでは、この過程は社会的物質代謝である。ある有用な労働様式の生産物が、他の有用な労働様式の生産物と入れ替わるのである。ひとたび、使用価値として役立つ場所に達すれば、商品は、商品交換の部面から消費の部面に落ちる。ここでわれわれが関心をもつのは、前の方の部面だけである。そこでわれわれは全過程を形態の面から、つまり、社会的物質代謝を媒介する諸商品の形態変換または変態だけを、考察しなければならない。
たとえば、靴と小麦の質料変換(靴―小麦)は、靴―貨幣―小麦という靴の価値の形態変換または姿態変換を媒介としておこなわれる。この交換過程の二つの側面を混同してはいけない。

この形態変換の理解がまったく不十分なのは、価値概念そのものが明らかになっていないということを別とすれば、あるひとつの商品の形態変換は、つねに二つの商品の、普通の商品と貨幣商品との交換において行なわれるという事情のせいである。商品と金との交換というこの素材的な契機だけを固執するならば、まさに見るべきもの、すなわち形態の上に起きるものを見落とすことになる。 金はただの商品としては貨幣ではないということ。そして、他の諸商品は、それらの価格において、それら自身の貨幣姿態としての金に自分自身を関係させるのだということを、見落とすのである。

交換過程は、商品と貨幣とへの商品の二重化、すなわち商品がその使用価値と価値との内的な対立をそこに表わすところの外的な対立を生みだす。この対立では、使用価値としての諸商品が交換価値としての貨幣に相対する。他方、この対立のどちら側も商品であり、したがって使用価値と価値との統一体である。しかし、このような、差別の統一は、両極のそれぞれに逆に表わされていて、そのことによって同時に両極の相互関係を表わしている。商品は実在的には使用価値であり、その価値存在は価格においてただ観念的に現れているだけである。そして、この価格が商品を、その実在の価値姿態としての対立する金に、関係させている。逆に、金材料は、ただ価値の物質化として、貨幣として、認められているだけである。それゆえ、金材料は実在的には交換価値である。その使用価値は、その実在の使用姿態の全範囲としての対立する諸商品にそれを関係させる一連の相対的価値表現において、ただ観念的に現れているだけである。このような、諸商品の対立的な諸形態が、諸商品の交換過程の現実の運動形態なのである。

商品 - 貨幣 - 商品(W - G - W)

その素材的内容から見れば、この運動はW-W、商品と商品との交換であり、社会的労働の物質代謝であって、その結果では過程そのものは消えてしまっている。
運動形態W-G-Wから媒介役であるGを抜いた「素材的内容」は、生産物交換であるW-Wと同じになってしまうが、実際の取引の過程は、貨幣Gが登場したために、W-GとG-Wの二つの変態に分かれる。

W-G、商品の第一変態または売り。

[121] 商品体から金体への商品価値の飛び移りは「商品の命がけの飛躍」である。

商品はなによりもまず貨幣所持者にとっての使用価値でなければならず、したがって、商品に支出された労働は社会的に有用な形態で支出されていなければならない。言いかえれば、その労働は社会的分業の一環として実証されなければならない。しかし、分業は一つの自然発生的な生産有機体であって、その繊維は商品所持者たちの背後で織られたものであり、また絶えず織られているのである。

[122] 分業体制のうちにそのバラバラな四肢を示している社会的生産有機体の量的な編制は、その質的な編制と同じに、自然発生的で偶然的である。それだから、われわれの商品所持者たちは、彼らを独立の私的生産者にするその同じ分業が、社会的生産過程とこの過程における彼らの諸関係とを彼ら自身から独立なものにするということを発見するのであり、人々の相互の独立性が全面的な物的依存の体制で補われていることを発見するのである。分業は、労働生産物を商品に転化させ、そうすることによって、労働生産物の貨幣への転化を必然にする。同時に、分業は、この化体が成功するかどうかを偶然にする。

[123] 一方の商品所持者にとっては金が彼の商品にとって代わり、他方の商品所持者にとっては商品が彼の金にとって代わる。…だが、なにと商品は交換されるのか? それ自身の一般的な価値姿態(金)とである。そして、金はなにと? その使用価値のひとつの特殊な姿態(商品)とである。商品の価格の実現、または商品の単に観念的な価値形態の実現は、同時に、逆に貨幣の単に観念的な使用価値の実現であり、商品の貨幣への転化は、同時に、貨幣の商品への転化である。この一つの過程が二面的な過程なのであって、商品所持者の極からは売りであり、貨幣所持者の反対極からは買いである。言いかえれば、売りは買いであり、W-Gは同時にG-Wである。

これまでの考察では、われわれの知っている人間の経済関係は、商品所持者たちの関係にほかならない。それは、ただ自分の生産物を他人のものにすることによってのみ、他人の労働生産物を自分のものにするという関係である。それゆえ、ある商品所持者に他の人が、貨幣所持者として相対することができるのは、ただ、彼の労働生産物が生来貨幣形態をもっており、したがって金やその他の貨幣材料であるからか、または、彼自身の商品がすでに脱皮していてその元来の使用形態を捨てているからである。
貨幣として機能するためには、金は、どこかの点で商品市場にはいらなければならない。この点は金の生産源であるが、そこでは金は、直接的労働生産物として、同じ価値の別の労働生産物と交換される。しかし、この瞬間から、その金はいつでも実現された商品価格を表わしている。金の生産源での金と商品との交換を別とすれば、どの商品諸自社の手にあっても、金は、彼が手放した商品の離脱した姿であり、売りの、または第一の商品変態W-Gの、産物である。金が観念的な貨幣または価値尺度になったのは、すべての商品が自分たちの価値を金で計り、こうして金を自分たちの使用姿態の心に描かれた反対物にし、自分たちの価値形態にしたからである。

一商品の第一の変態,W-G 商品形態から貨幣へのその転化は、いつでも同時に他の一商品の第二の反対の変態、G-W 貨幣形態から商品へのその再転化である。

G-W、商品の第二の、または最後の変態、買い。

[124] 貨幣は、他のいっさいの商品の離脱した姿、またはそれらの一般的な譲渡の産物だから、絶対的に譲渡されうる商品である。…それは、一方では売られた商品を代表するとすれば、他方では買われうる商品を代表するのである。

 ある商品の最後の変態は、同時に他の一商品の最初の変態である。

商品のどちらの変態でも、商品の両形態、商品形態と貨幣形態とが同時に、しかしただ反対の極に存在するように、同じ商品所持者にたいして、売り手としての彼には別の買い手が、買い手としての彼には別の売り手が相対している。同じ商品が二つの逆の変態を次々に通って、商品から貨幣になり、貨幣から商品になるように、同じ商品所持者が役割を取り替えて売り手にも買い手にもなるのである。だから、売り手と買い手とはけっして固定した役割ではなく、商品流通のなかで絶えず人を取り替える役割である。

一商品の総変態は、その最も単純な形態では、四つの極と三人の登場人物とを前提する。まず、商品にその価値姿態としての貨幣が相対するのであるが、この価値姿態は、向こう側で、他人のポケットのなかで、物的な堅い実存性をもっている。こうして、商品所持者には貨幣所持者が相対する。 次に、商品が貨幣に転化されれば、その貨幣は商品の一時的な等価形態となり、この等価形態の使用価値または内容はこちら側で他の商品体のうちに存在する。第一の商品変態の終点として、貨幣は同時に第二の変態の出発点である。こうして、第一幕の売り手は第二幕では買い手になり、この幕では彼に第三の商品所持者が売り手として相対するのである。

W-G-W(リンネル―貨幣―聖書)
W-G-W(小麦―貨幣ーリンネル)

ある一つの商品の循環をなしている二つの変態は、同時に他の二つの商品の逆の部分変態をなしている。…各商品の変態列が描く循環は、他の諸商品の循環と解きがたくからみ合っている。この総過程は商品流通として現れる。

商品流通は、ただ形態的にだけでなく、実質的に直接的生産物交換とは違っている。
 商品流通では、一方では商品交換が直接的生産物交換の個人的および局地的制限を破って人間労働の物質代謝を発展させるのが見られる。他方では、当事者たちによっては制御されえない社会的な自然関連の一つの全体圏が発展してくる。… それだから、流通過程はまた、直接的生産物交換のように使用価値の場所変換または持ち手変換によって消えてしまうものでもない。貨幣は、最後には一つの商品の変態列から脱落するからといって、それで消えてしまうものはない。それは、いつでも、商品があけた流通場所に沈殿する。…商品による商品の取り替えは、同時に第三の手に貨幣商品をとまらせる。流通は絶えず貨幣を発汗している。


【参考】古典派経済学批判  どの売りも買いであり、またその逆でもあるのだから、商品流通は、売りと買いとの必然的な均衡を生じさせる、という説ほどばかげたものはありえない。それの意味するところが、現実に行われた売りの数が現実に行われた買いの数に等しい、というのであれば、それはつまらない同義反復である。・・・・

【参考】恐慌の可能性  流通は生産物交換の時間的、場所的、個人的制限を破るのであるが、それは、まさに、生産物交換のうちに存する、自分の労働生産物を交換のために引き渡すことと、それとひきかえに他人の労働生産物を受け取ることとの直接的同一性を、流通が売りと買いとの対立に分裂させるということ・・・・

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