貨幣の流通は、同じ過程の不断の単調な繰り返しを示している。商品はいつでも売り手の側に立ち、貨幣はいつでも購買手段として買い手の側に立っている。貨幣は商品の価格を実現することによって、購買手段として機能する。貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかって、また別の商品と同じ過程を繰り返す。このような貨幣運動の一面的な形態が商品の二面的な形態運動から生ずるということは、おおい隠されている。商品流通そのものの性質が反対の外観を生み出すのである。商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけでなく、商品自身の運動としても目にみえるが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えないのである。…運動の連続性はまったく貨幣の側にかかってくる。そして、商品にとっては二つの反対の過程を含む同じ運動が、貨幣の固有の運動としては、つねに同じ過程を、貨幣とそのつど別な商品との場所変換を、含んでいるのである。それゆえ、商品流通の結果、すなわち別の商品による商品の取り替えは、商品自身の形態変換によってではなく、流通手段としての貨幣の機能によって媒介されるように見え、この貨幣が、それ自体としては運動しない商品を流通させ、商品を、それが非使用価値であるところの手から、それが使用価値であるところの手へと、つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移して行くというように見えるのである。貨幣は、絶えず商品に代わって流通場所を占め、それにつれて自分自身の出発点から遠ざかって行きながら、商品を絶えず流通部面から遠ざけて行く。それゆえ、貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現れるのである。
貨幣に流通手段の機能が属するのは、貨幣が諸商品の価値の独立化されたものであるからにほかならない。だから、流通手段としての貨幣の運動は、実際は、ただ商品自身の形態運動でしかないのである。したがってまた、この形態運動は感覚的にも貨幣の流通に反映しなければならない。リンネルの第一の変態はこの貨幣片を織職のポケットに入れ、第二の変態はそれを再び持ち出す。だから、同じ商品の二つの形態変換は、反対の方向への貨幣の二度の場所変換に反映するのである。
諸商品の価格総額/同名の貨幣片の流通回数=流通手段として機能する貨幣の量
[134] 貨幣流通では、一般にただ諸商品の流通過程が、すなわち反対の諸変態をつうじての諸商品の循環が、現われるだけであるが、同様に、貨幣流通の速さに現われるものも、商品の形態変換の速さ、諸変態列の連続的なかみ合い、物質代謝の速さ、流通過程からの諸商品の消失の速さ、そしてまた新たな諸商品の入れ替わりの速さである。つまり、貨幣流通の速さには、対立しながら互いに補い合う諸段階の、価値姿態への使用姿態の転化と使用姿態への価値姿態の再転化との、または売りと買いという両過程の、流動的な統一が現われる。逆に、貨幣流通の緩慢化には、これらの過程の分離と対立的な独立化、形態変換、したがってまた物質代謝の停滞が現われる。この停滞がどこから生ずるかは、もちろん、流通そのものを見てもわからない。流通は、ただ現象そのものを示すだけである。通俗的な見解は、貨幣流通が緩慢になるにつれて流通部面のあらゆる点で貨幣が現れては消える回数が少なくなるのを見るのであるが、このような見解がこの現象を流通手段の量の不足から説明しようとするのは、いかにもありそうなことである。
流通手段と商品価格との関係
流通手段の量は、流通する商品の価格総額と貨幣流通の平均速度とによって規定されているという法則は、すなわち、諸商品の価値総額とその変態の平均速度とが与えられていれば、流通する貨幣または貨幣材料の量は、それ自身の価値によって定まる、と表現することもできる。これとは逆に、商品価格は流通手段の量によって規定され、流通手段の量はまた一国に存在する貨幣材料の量によって規定される、という幻想は、商品は、価格をもたずに流通過程にはいり、また貨幣は価値をもたずに流通過程にはいってきて、そこで雑多な商品群の一可除部分と金属の山の一可除部分とが交換されるのだ、というばかげた仮説に根ざしているのである。