流通手段としての貨幣の機能からは、その鋳貨姿態が生ずる。商品の価格または貨幣名として心に描かれている金の重量部分は、流通のなかでは同名の金片または鋳貨として商品に相対しなければならない。価格の度量標準の確定と同様に、鋳造の仕事は国家の手に帰する。
金銀が鋳貨として身につけ世界市場では再び脱ぎ捨てるいろいろな国家的制服には、商品流通の国内的または国家的部面とその一般的な世界市場部面との分離が現われている。
貨幣流通そのものが鋳貨の実質純分を名目純分から分離し、その金属定在をその機能的定在から分離するとすれば、貨幣流通は、金属貨幣がその鋳貨機能では他の材料から成っている章標または象徴によって置き替えられるという可能性を、潜在的に含んでいる。
金属製の貨幣章標では、純粋に象徴的な性格はまだいくらか隠されている。紙幣ではそれが一見してわかるように現れている。紙幣は金章標または貨幣章標である。紙幣の商品価値にたいする関係は、ただ、紙幣によって象徴的感覚的に表わされているのと同じ金量で商品価値が観念的に表わされているということにあるだけである。ただ、すべての他の商品量と同じにやはり価値量である金量を紙幣が代表するかぎりにおいてのみ、紙幣は価値章標なのである。
金は、鋳造貨幣として使用され、この金貨をもろもろの商品の価値を表現するのための基準として使うことを金本位制という。
金本位制の下で発行される紙幣は、一般に各国の中央銀行が発行する銀行券であり、中央銀行が保有する金貨や金塊と引き替えに発行される兌換紙幣である。紙幣が信用される根拠は、本来金本位制の兌換制度にあった。従って、金本位制度の下では各国の紙幣量は金の保有量に制約される。
最後に問題となるのは、
なぜ金はそれ自身の単なる無価値な章標によって代理されることができるのか?
金がそのように代理されることができるのは、それがただ鋳貨または流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化されるかぎりでのことである。金貨が単なる鋳貨または流通手段であるのは、ただ、それが現実に流通しているあいだだけのことである。…この最小量の金は、つねに流通部面に住んでいて、ひきつづき流通手段として機能し、したがってただこの機能の担い手としてのみ存在する。だから、その運動は、ただ商品変態 W-G-Wの相対する諸過程の継続的な相互変換を表わしているだけであり、これらの過程では商品にたいしてその価値姿態が相対したかと思えばそれはまたすぐに消えてしまうのである。商品の交換価値の独立的表示は、ここではただ瞬間的な契機でしかない。それは、またすぐに他の商品にとって代わられる。それだから、貨幣を絶えず一つの手から別の手に遠ざけて行く過程では、貨幣の単に象徴的な存在でも十分なのである。いわば、貨幣の機能的定在が貨幣の物質的定在を吸収するのである。商品価格の瞬間的に客体化された反射としては、貨幣はただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた章標によって代理されることができるのである。