どの売りも買いであり、またその逆でもあるのだから、商品流通は、売りと買いとの必然的な均衡を生じさせる、という説ほどばかげたものはありえない。
それの意味するところが、現実に行われた売りの数が現実に行われた買いの数に等しい、というのであれば、それはつまらない同義反復である。しかしそれは、売り手は買い手を市場につれてくるのだということを証明しようとするのである。売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行動としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、
売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝に投げ込まれたのに貨幣として出てこなけば、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる。さらに、この同一性は、もしこの過程が成功すれば、それは一つの休止点を、長いことも短いこともある商品の生涯の一時期を、なすということを含んでいる。商品の第一の変態は同時に売りでも買いでもあるのだから、この部分過程は同時に独立な過程である。…別のだれかが買わなければ、だれも売ることはできない。しかし、だれも、自分が売ったからといって、すぐに買わなければならないということはない。
(注73)
第一には、商品流通と直接的生産物交換との相違の単純な捨象による両者の同一視
第二には、資本主義的生産過程の生産当事者たちの諸関係を、商品流通から生ずる単純な関係に解消することによって、資本主義的生産過程の諸矛盾を否定し去ろうとする試みである。
しかし、商品生産と商品流通とは、その広がりや重要さはいろいろに違うにしても、非常に違ったいろいろな生産様式に属する現象である。だから、いろいろな生産様式に共通な、抽象的な、商品流通の諸範疇だけを知っても、これらの生産様式の種差はなにもわからないのであり、したがってそれらを評価することもできないのである。