恐慌の可能性

 流通は生産物交換の時間的、場所的、個人的制限を破るのであるが、それは、まさに、生産物交換のうちに存する、自分の労働生産物を交換のために引き渡すことと、それとひきかえに他人の労働生産物を受け取ることとの直接的同一性を、流通が売りと買いとの対立に分裂させるということによってである。独立して相対する諸過程が一つの内的な統一をなしていることは、同様にまた、これらの過程の内的な統一が外的な諸対立において運動するということをも意味している。互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化が、ある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれるー恐慌というものによって。商品に内在する使用価値と価値との対立、私的労働が同時に直接に社会的な労働として現われなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ認められるという対立、物の人化と人の物化という対立ーこの内在的な矛盾は、商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取るのである。それゆえ、これらの形態は、恐慌の可能性を、しかしただ可能性だけを、含んでいるのである。この可能性の現実性への発展は、単純な商品流通の立場からはまだまったく存在しない諸関係の一大範囲を必要とするのである。
物々交換から商品流通への発展は、単なる二つの商品の交換ではなく、多数の商品の交換として表れる。それは、物々交換では直接的に同一であった販売と購買を、二つに分裂させ、相互に関連させるということである。ここにも、直接的同一から媒介的統一への弁証法的展開が見られる。「流通は、生産物交換の時間的、場所的、個人的制限を破るのであるが、それは、まさに、生産物交換のうちに存する、自分の労働生産物を交換のために引き渡すことと、それと引き換えに他人の労働生産物を受け取ることとの直接的同一性を、流通が売りと買いとの対立に分裂させるということによってである。独立して相対する諸過程が一つの内的な統一をなしていることは、同時に又、これらの過程の内的な統一が外的な諸対立において運動することをも意味している。互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化が、ある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれるー恐慌というものによって。」ここには、二つの過程への分裂から、諸過程の独立へ、外的対立へ、外的独立化へ、そして恐慌へとの弁証法的発展の理論的根拠が描かれている。
「商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能をもつことになる。」ここに、貨幣の「使用価値」の側面としての「流通手段」の規定が、実際の運動の中で論理的に形作られる。