摘要ノート「資本論」(7)

第三章 貨幣または商品流通

第一節 価値の尺度

[109] 金を貨幣商品として前提する。
金の第一の機能は、商品世界にその価値表現の材料を提供すること、または、諸商品価値を同名の大きさ、すなわち質的に同じで量的に比較可能な大きさとして表わすことにある。こうして金は諸価値の一般的尺度して機能し、ただこの機能によってのみ、金という独自な等価物商品は貨幣になるのである。

諸商品は、貨幣によって通約可能になるのではない。逆である。すべての商品が価値としては対象化された人間労働であり、したがって、それら自体として通約可能だからこそ、すべての商品は、自分たちの価値を同じ独自な一商品で共同に計ることができるのであり、また、そうすることによって、この独自な一商品を自分たちの共通な価値尺度すなわち貨幣に転化させることができるのである。価値尺度としての貨幣は、諸商品の内在的な価値尺度のすなわち労働時間の、必然的な現象形態である。
(注50)
なぜ貨幣は直接に労働時間そのものを代表しないのか、なぜ、たとえば一枚の書つけが労働時間を表わすというようにならないのか、という問いはまったく簡単に、なぜ商品生産の基礎の上では労働生産物は商品として表されなければならないのか、という問いに帰着する。なぜならば、商品という表示は、商品と貨幣商品とへの二重化を含んでいるからである。または、なぜ私的労働は、直接に社会的な労働として、つまりそれの反対物として、取り扱われることができないのか、という問いに帰着する。
[110] 一商品の金での価値表現―1トンの鉄=2オンスの金―は、その商品の貨幣形態またはその商品の価格である。この等式は、もはや、他の諸商品の価値等式といっしょに列をつくって行進する必要はない。というのは、等価商品である金は、すでに貨幣の性格をもっているからである。それゆえ、諸商品の一般的な相対的価値形態は、いまでは再びその最初の単純な、または個別的な相対的価値形態の姿をもっているのである。他方、展開された相対的価値表現または多くの相対的価値表現の無限の列は、貨幣商品の独自な相対的価値形態になる。しかし、この列は、いまではすでに諸商品価格のうちに社会的に与えられている。物価表を逆に読めば、貨幣の価値の大きさがありとあらゆる商品で表わされているのが見いだされる。これに反して、貨幣は価格をもっていない。このような、他の諸商品の統一的な相対的価値形態に参加するためには、貨幣はそれ自身の等価物としてのそれ自身に関係させられなければならないであろう。
[111] 商品の価格または貨幣形態は、商品の価値形態一般と同様に、商品の、手につかめる実在的な物体形態からは区別された、したがって単に観念的な、または心に描かれた形態である。…価値尺度機能のためには、ただ心に描かれただけの貨幣が役立つとはいえ、価格はまったく実在の貨幣材料によって定まるのである。それゆえ、もしふたつの違った商品、たとえば金と銀とが同時に価値尺度として役だつとすれば、すべての商品はふたとおりの違った価格表現、すなわち金価格と銀価格とをもつことになる。これらの価格表現は、銀と金との価値比率、たとえば1対15というようなそれが不変であるかぎり、無事に相並んで行われる。しかし、この価値比率の変動が起きるたびに、それは諸商品の金価格と銀価格との比率を撹乱して、この事実によって、価値尺度の二重化がその機能と矛盾することを示すのである。
注53
金銀どちらででも支払うことのできる諸国では、実際には、価値の上がる金属には打歩がついて、他の各商品と同じに、過大評価されたほうの金属で自分の価格を計るのであって、この過大評価された金属だけが価値尺度として役だつのである。
[113] 価値の尺度および価格の度量標準として、貨幣は二つのまったく違った機能を行う。貨幣が価値の尺度であるのは、人間労働の社会的化身としてであり、価格の度量標準であるのは、固定した金属重量としてである。それは価値尺度としては、種々雑多な商品の価値を価格に、すなわち心に描かれた金量に転化するのに役だち、価格の度量標準は、いろいろな金量をある一つの金量で計るのであって、ある金量の価値を他の金量の重量で計るのではない。価格の度量標準のためには、一定の金重量が度量単位として固定されなければならない。…価値の尺度として金が役だつことができるのは、ただ、金そのものが労働生産物、つまり可能性から見てひとつの可変的な価値であるからこそである。
金の価値変動は、金が価値尺度として機能すること、また、金が価格の度量標準として機能することをけっして妨げない。…そこに前提されているのは、ただ、一定の時には一定量の金の生産には一定量の労働がかかるということだけである。

[116] 価格は、商品に対象化されている労働の貨幣名である。それだから、商品と、その名が商品の価格であるところの貨幣量とが等価だということは、一つの同義反復である。というのは、およそ一商品の相対的価値表現はつねに二つの商品の等価性の表現だからである。しかし、商品の価値量の指標としての価格は、その商品と貨幣との交換割合の指標だとしても、逆にその商品と貨幣との交換割合の指標は必然的にその商品の価値量の指標だということにはならない。…商品の価値量は、社会的労働時間にたいする或る必然的な、その商品の形成過程に内在する関係を表している。価値量が価格に転化されるとともに、この必然的な関係は、一商品とその外にある貨幣商品との交換割合として現れる。しかし、この割合では、商品の価値量が表現されうるとともに、また与えられた事情のもとでその商品が手放される場合の価値量以上または以下も表現されうる。だから、価格と価値量との量的な不一致の可能性、または価値量からの価格の偏差の可能性は、価格形態そのものうちにあるのである。このことは、けっしてこの形態の欠陥ではなく、むしろ逆に、この形態を、一つの生産様式の、すなわちそこでは原則がただ無原則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうるような生産様式の、適当な形態にする。

しかし、価格形態は、価値量と価格との、すなわち価値量とそれ自身の貨幣表現との、量的な不一致の可能性を許すだけでなく、一つの質的な矛盾、すなわち、貨幣はただ商品の価値形態でしかないにもかかわらず、価格がおよそ価値表現ではなくなるという矛盾を宿すことができる。それ自体としては商品でないもの、たとえば良心や名誉などは、その所持者が貨幣とひきかえに売ることができるものであり、こうしてその価格をつうじて商品形態を受け取ることができる。それゆえ、ある物は、価値を持つことなしに、形式的に価格をもつことができるのである。ここでは価格表現は、数学上のある種の量のように、想像的なものになる。他方、想像的な価格形態、たとえば、そこには人間労働が対象化されていないので少しも価値のない未開墾地の価格のようなものも、ある現実の価値関係、またはこれから派生した関係をひそませていることがありうるのである。


商品は、その実在の姿、たとえば鉄という姿のほかに、価格において観念的な価値姿態または心に描かれた金姿態をもつことはできるが、しかし、現実に鉄であると同時に現実に金であることはできない。商品がその所持者のために一般的等価物の役を果たそうとするならば、それは金と取り替えられなければならない。

価格形態は、貨幣とひきかえに商品を手放すことの可能性とこの手放すことの必然性とを含んでいる。他方、金は、ただそれがすでに交換過程で貨幣形態としてかけまわっているからこそ、観念的な価値尺度として機能するのである。

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