摘要ノート「資本論」(6)

第二章  交換過程

商品は、使用価値と価値との、すなわち二つの対立物の・直接的統一である。だからそれは一個の直接的な矛盾である。商品がこれまでのように分析的に、まず使用価値の観点のもとで、つぎに交換価値の観点のもとで、かわるがわる観察されるのではなく、一つの全体として現実に他の商品に関係させられるやいなやこの矛盾はみずからを展開しなければならぬ。ところで諸商品相互の現実的な関係は、それらの交換過程である。」(初版より)
[99] これらの物を商品として関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの物にやどす人として、互いに相対しなければならない。したがって、一方はただ他方の同意のもとにのみ、すなわちどちらもただ両者に共通な一つの意志行為を媒介してのみ、自分の商品を手放すことによって、他人の商品を自分のものにするのである。それゆえ、彼らは互いに相手を私的所有者として認めあわなければならない。契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展していてもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である。この法的関係、または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている。ここでは、人々はただ互いに商品の代表者としてのみ、したがって商品所持者としてのみ、存在する。・・・人々の経済的扮装はただ経済的諸関係の人化でしかないのであり、人々はこの経済的諸関係の担い手として互いに相対するのだ。

すべての商品は、その所持者にとっては、非使用価値であり、その非所持者にとっては使用価値である。だから、商品は全面的に持ち手を取り替えなければならない。そして、この持ち手の取り替えが商品の交換なのであり、また、商品の交換が商品を価値として互いに関係させ、商品を価値として実現するのである。それゆえ、商品は、使用価値として実現されるまえに、価値として実現されなければならない。・・・他方では、商品は、自分を価値として実現しうるまえに、自分を使用価値として実現しなければならない。なぜならば、商品に支出された人間労働は、ただ他人にとって有用な形態で支出されているかぎりでしか、数にはいらないからである。ところが、その労働が他人にとって有用であるかどうか、したがってまたその生産物が他人の欲望を満足させるかどうかは、ただ商品の交換だけが証明することができるのである。

どの商品所持者にとっても、他人の商品はどれでも自分の商品の特殊的等価物とみなされ、したがって自分の商品はすべての他の商品の一般的等価物とみなされる。だが、すべての商品所持者が同じことをするのだから、どの商品も一般的等価物ではなく、したがってまた諸商品は互いに価値として等置され価値量として比較されるための一般的な相対的価値形態をもっていない。したがってまた、諸商品は、けっして商品として相対するのではなく、ただ生産物または使用価値として相対するだけである。
したがって、諸商品が価値としてたがいに等置され、価値の大きさとしてたがいに比較されあうことは、不可能である。これが、諸商品の全面的交換にふくまれている矛盾である。
彼らが自分たちの商品を互いに価値として関係させ、したがってまた商品として関係させることができるのは、ただ、自分たちの商品を、一般的等価物としての別の或る一つの商品に対立的に関係させることによってのみである。…しかし、ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表わすのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品はー貨幣になるのである。
[102] 貨幣結晶は、種類の違う労働生産物が実際に互いに等置され、したがって実際に商品に転化される交換過程の、必然的な産物である。交換の歴史的な広がりと深まりとは、商品の本性のうちに眠っている使用価値と価値との対立を展開する。この対立を交易のために外的に表わそうという欲求は、商品価値の独立形態に向かって進み、商品と貨幣とへの商品の二重化によって最終的にこの形態に到達するまでは、少しも休もうとしない。それゆえ、労働生産物の商品への転化が実現されるのと同じ程度で、商品の貨幣への転化が実現されるのである。

(ここから、マルクスは、交換の歴史を、論理的にさかのぼって見ていく。これはいままで論理的に展開してきたものが、実際に歴史上に現われる過程を見ることになる。)

直接的生産物交換は、一面では単純な価値表現の形態をもっているが、他面ではまだそれをもっていない。この形態は、X量の商品A=Y量の商品B であった。直接的生産物交換の形態は、X量の使用対象A=Y量の使用対象Bである。AとBという物はこの場合には交換以前には商品ではなく、交換によってはじめて商品になる。ある使用対象が可能性から見て交換価値であるという最初のあり方は、非使用価値としての、その所持者の直接的欲望を超える量の使用価値としての、それの定在である。諸物は、それ自体としては人間にとって外的なものであり、したがって手放しうるものである。この手放すことが相互的であるためには、人々はただ暗黙のうちにその手放されうる諸物の私的所有者として相対するだけでよく、またまさにそうすることによって互いに独立な人として相対するだけでよい。とはいえ、このように互いに他人であるという関係は、自然発生的な共同体の成員にとっては存在しない。

商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点ではじまる。しかし、物がひとたび対外的共同生活で商品になれば、それは反作用的に内部的共同生活でも商品になる。諸物の量的な交換割合は、最初はまったく偶然的である。それらの物が交換されうるのは、それらの物を互いに手放しあうというそれらの物の所持者たちの意志行為によってである。しかし、そのうちに、他人の使用対象にたいする欲望は、だんだん固定してくる。交換の不断の繰り返しは、交換を一つの規則的な社会的過程にする。したがって、時がたつにつれて、労働生産物の少なくとも一部分は、はじめから交換を目的として生産されなければならなくなる。この瞬間から、一方では、直接的必要のための諸物の有用性と、交換のための諸物の有用性との分離が固定してくる。諸物の使用価値は諸物の交換価値から分離する。他方では、それらの物が交換される量的な割合が、それらの物の生産そのものによって定まるようになる。慣習は、それらの物を価値量として固定させる。

直接的生産物交換では、…交換される物品は、それ自身の使用価値や交換者の個人的欲望にはかかわりのない価値形態をまだ受け取っていないこの形態の必然性は、交換過程にはいってくる商品の数と多様性とが増大するにつれて発展する。課題は、その解決の手段と同時に生まれる。商品所持者たちが彼ら自身の物品をいろいろな他の物品と交換し比較する交易は、いろいろな商品がいろいろな商品所持者たちによってそれらの交易のなかで一つの同じ第三の商品種類と交換され価値として比較されうるということなしには、けっして行われないのである。このような第三の商品は、他のいろいろな商品の等価物となることによって、狭い限界のなかでではあるが、直接に、一般的な、または社会的な等価形態を受け取る。この一般的等価形態は、それを生み出した一時的な社会的接触といっしょに発生し消滅する。かわるがわる、そして一時的に、一般的等価形態はあれこれの商品に付着する。しかし商品交換の発展につれて、それは排他的に特別な商品種類だけに固着する。言いかえれば、貨幣形態に結晶する。それがどんな商品種類にひきつづき付着しているかは、はじめは偶然である。しかし、だいたいにおいて二つの事情が事柄を決定する。貨幣形態は、域内生産物の交換価値の実際上の自然発生的な現象形態である外来の最も重要な交換物品に付着するか、または域内の譲渡可能な財産の主要要素をなす使用対象、たとえば家畜のようなものに付着する。

商品交換がその局地的な限界を打ち破り、したがって商品価値が人間労働一般の物質化に発展してゆくにつれて、貨幣形態は、生来一般的等価物の社会的機能に適している諸商品に、貴金属に、移ってゆく。…価値の適当な現象形態、または抽象的な、したがって同等な人間労働の物質化でありうるのは、ただ、どの一片をとってみてもみな同じ均等な質をもっている物質だけである。他方、価値量の相違は純粋に量的なものだから、貨幣商品は、純粋に量的な区別が可能なもの、つまり任意に分割することができ、その諸部分から再び合成することができるものでなければならない。ところが、金銀は生来これらの属性をもっているのである。

貨幣商品の使用価値は二重になる。それは、商品としてのその特殊な使用価値、たとえば金が虫歯の充填や奢侈品の原料などに役立つというような使用価値のほかに、その独自な社会的機能から生ずる一つの形態的使用価値を受け取るのである。

他のすべての商品はただ貨幣の特殊的等価物でしかなく、貨幣は他の諸商品の一般的等価物なのだから、他の諸商品は、一般的商品としての貨幣にたいして、特殊的諸商品として相対するのである。

貨幣形態は、他のすべての商品の関係の反射が一つの商品に固着したものでしかない。だから、貨幣が商品であるということは、ただ、貨幣の完成姿態から出発してあとからこれを分析しようとするものにとって一つの発見であるだけである。交換過程は、自分が貨幣に転化させる商品に、その価値を与えるのではなく、その独自な価値形態を与えるのである。…一商品の等価形態は、その商品の価値の大きさの量的な規定を含んではいない。金が貨幣であり、したがってすべての他の商品と直接に交換されうるものだということを知っていても、それだからといって、たとえば十ポンドの金にどれだけの価値があるのかがわかるわけではない。どの商品でもそうであるように、貨幣もそれ自身の価値量をただ相対的に他の商品で表わすことができるだけである。

困難は、貨幣が商品だということを理解することにあるのではなく、どのようにして、なぜ、なにによって、商品は貨幣であるのかを理解することにある。


すでに X量の商品A=Y量の商品B という最も単純な価値表現にあっても、他の一つの物の価値量がそれで表わされるところの物は、その等価形態をこの関係にはかかわりなく社会的な自然属性をもっているかのように見える。われわれはこのまちがった外観の固定化を追跡した。この外観は、一般的等価形態が一つの特別な商品種類の現物形態と合生すれば、または貨幣形態に結晶すれば、すでに完成している。一商品は、他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表わすのではじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるから、他の諸商品が一般的に自分たちの価値をこの一商品で表わすように見える。媒介する運動は運動そのものの結果では消えてしまって、なんの痕跡も残していない。諸商品は、なにもすることなしに、自分自身の完成した価値姿態を、自分のソトに自分と並んで存在する一つの商品体として、眼前に見いだすのである。これらの物、金銀は、地の底から出てきたままで、同時にいっさいの人間労働の直接的化身である。ここに貨幣の魔術がある。人間の社会的生産過程における彼らの単なる原子的な行為は、したがってまた彼ら自身の生産関係の、彼らの制御や彼らの意識的個人的行為にはかかわりのない物的な姿は、まず第一に、彼らの労働生産物が一般的に商品形態をとるということに現われるのである。それゆえ、貨幣呪物の謎は、ただ、商品呪物の謎が人目に見え人目をくらますようになったものでしかないのである。

 独立した私的生産者の私的所有は、商品の交換の論理的出発点であるが、歴史的には、共同体自体が私的所有者としての役割を負うのである。
 これは、生産(及び消費)から交換の分離・独立化の過程である。直接的生産物交換(物物交換)というのは、生産(及び消費)と直接的に同一な交換として把握しうる。交換と生産は分離されておらず、直接的に一体である。ところが、「交換の不断の繰り返しは」量質転化を起こし、交換が社会過程として確立することによって、生産と一体であった交換である物物交換から、交換過程が相対的に独立し、商品流通過程となって、生産と媒介関係に置かれるようになる。しかし、分離されたとはいえ、交換過程は生産過程と媒介関係にあり、交換過程は、交換する商品を生産から供給されてはじめて成立するという意味で、生産過程と直接に同一の側面を持っているということになる。
 それに対応して、生産物の生産が、交換を目的とする過程へ変化しはじめる。「労働生産物の少なくとも一部分は、はじめから交換を目的として生産され」るようになっていく。生産が、生産物の生産過程から、交換の産物である「価値」の生産過程へと変貌するということは、生産の中に、交換と直接に同一の側面を確立するということである。こうして、生産と交換が相互規定的となり相互浸透を始め、その発展が始まるのである。なお、労働過程と価値生産過程との統一の論理は、第3篇第五章で展開される。

 「直接的生産物交換では、…それ自身の使用価値や交換者の個人的欲望にかかわりのない価値形態をまだ受け取っていないのである。この形態の必然性は、交換過程にはいってくる商品の数と多様性とが増大するにつれて発展する。…交易は、いろいろな商品が…一つの同じ第三の商品種類と交換され価値として比較される…このような第三の商品は、…直接に、一般的な、または社会的な等価形態を受け取る。…一時的に、一般的等価形態はあれこれの商品に付着する。しかし、商品交換の発展につれて、それは排他的に特別な商品種類だけに固着する。」偶然性は必然性に転化する。「貨幣形態は、域内生産物の交換価値の実際上の自然発生的な現象形態である外来の最も重要な交換物品に付着するか、または、域内の譲渡可能な財産の主要要素をなす使用対象、たとえば家畜のようなものに付着する。」「商品交換がその局地的な限界を打ち破り、…貨幣形態は、生来一般的等価物の社会的機能に適している諸商品に、貴金属に、移っていく。」「金銀の自然属性が貨幣の諸機能に適している…。」
 「貨幣商品の使用価値は二重になる。それは、商品としてのその特殊な使用価値、…のほかに、その独自な社会的機能から生ずる一つの形態的使用価値を受け取る」。貨幣は、その他の商品と同様な特殊な使用価値であると共に、一般的価値形態から規定される使用価値という矛盾を抱え込むようになる。

「一商品の等価形態は、その商品の価値の大きさの量的な規定を含んではいない。…貨幣自身の価値は、貨幣の生産に必要な労働時間によって規定されていて、それと同じだけの労働時間が凝固している他の商品の量で表現される。このような、貨幣の相対的価値量の確定は、その生産源での直接的物物交換で行われる。それが貨幣として流通に入るとき、その価値はすでに与えられている。」
 貨幣商品にも、商品が持つ一般性は貫かれているのである。
【参考】弁証法における矛盾


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