したがって、諸商品が価値としてたがいに等置され、価値の大きさとしてたがいに比較されあうことは、不可能である。これが、諸商品の全面的交換にふくまれている矛盾である。
彼らが自分たちの商品を互いに価値として関係させ、したがってまた商品として関係させることができるのは、ただ、自分たちの商品を、一般的等価物としての別の或る一つの商品に対立的に関係させることによってのみである。…しかし、ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表わすのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品はー貨幣になるのである。
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貨幣結晶は、種類の違う労働生産物が実際に互いに等置され、したがって実際に商品に転化される交換過程の、必然的な産物である。交換の歴史的な広がりと深まりとは、商品の本性のうちに眠っている使用価値と価値との対立を展開する。この対立を交易のために外的に表わそうという欲求は、商品価値の独立形態に向かって進み、商品と貨幣とへの商品の二重化によって最終的にこの形態に到達するまでは、少しも休もうとしない。それゆえ、労働生産物の商品への転化が実現されるのと同じ程度で、商品の貨幣への転化が実現されるのである。
(ここから、マルクスは、交換の歴史を、論理的にさかのぼって見ていく。これはいままで論理的に展開してきたものが、実際に歴史上に現われる過程を見ることになる。)
直接的生産物交換は、一面では単純な価値表現の形態をもっているが、他面ではまだそれをもっていない。この形態は、X量の商品A=Y量の商品B であった。直接的生産物交換の形態は、X量の使用対象A=Y量の使用対象Bである。AとBという物はこの場合には交換以前には商品ではなく、交換によってはじめて商品になる。ある使用対象が可能性から見て交換価値であるという最初のあり方は、非使用価値としての、その所持者の直接的欲望を超える量の使用価値としての、それの定在である。諸物は、それ自体としては人間にとって外的なものであり、したがって手放しうるものである。この手放すことが相互的であるためには、人々はただ暗黙のうちにその手放されうる諸物の私的所有者として相対するだけでよく、またまさにそうすることによって互いに独立な人として相対するだけでよい。とはいえ、このように互いに他人であるという関係は、自然発生的な共同体の成員にとっては存在しない。
商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点ではじまる。しかし、物がひとたび対外的共同生活で商品になれば、それは反作用的に内部的共同生活でも商品になる。諸物の量的な交換割合は、最初はまったく偶然的である。それらの物が交換されうるのは、それらの物を互いに手放しあうというそれらの物の所持者たちの意志行為によってである。しかし、そのうちに、他人の使用対象にたいする欲望は、だんだん固定してくる。交換の不断の繰り返しは、交換を一つの規則的な社会的過程にする。したがって、時がたつにつれて、労働生産物の少なくとも一部分は、はじめから交換を目的として生産されなければならなくなる。この瞬間から、一方では、直接的必要のための諸物の有用性と、交換のための諸物の有用性との分離が固定してくる。諸物の使用価値は諸物の交換価値から分離する。他方では、それらの物が交換される量的な割合が、それらの物の生産そのものによって定まるようになる。慣習は、それらの物を価値量として固定させる。
直接的生産物交換では、…交換される物品は、それ自身の使用価値や交換者の個人的欲望にはかかわりのない価値形態をまだ受け取っていないこの形態の必然性は、交換過程にはいってくる商品の数と多様性とが増大するにつれて発展する。課題は、その解決の手段と同時に生まれる。商品所持者たちが彼ら自身の物品をいろいろな他の物品と交換し比較する交易は、いろいろな商品がいろいろな商品所持者たちによってそれらの交易のなかで一つの同じ第三の商品種類と交換され価値として比較されうるということなしには、けっして行われないのである。このような第三の商品は、他のいろいろな商品の等価物となることによって、狭い限界のなかでではあるが、直接に、一般的な、または社会的な等価形態を受け取る。この一般的等価形態は、それを生み出した一時的な社会的接触といっしょに発生し消滅する。かわるがわる、そして一時的に、一般的等価形態はあれこれの商品に付着する。しかし商品交換の発展につれて、それは排他的に特別な商品種類だけに固着する。言いかえれば、貨幣形態に結晶する。それがどんな商品種類にひきつづき付着しているかは、はじめは偶然である。しかし、だいたいにおいて二つの事情が事柄を決定する。貨幣形態は、域内生産物の交換価値の実際上の自然発生的な現象形態である外来の最も重要な交換物品に付着するか、または域内の譲渡可能な財産の主要要素をなす使用対象、たとえば家畜のようなものに付着する。
商品交換がその局地的な限界を打ち破り、したがって商品価値が人間労働一般の物質化に発展してゆくにつれて、貨幣形態は、生来一般的等価物の社会的機能に適している諸商品に、貴金属に、移ってゆく。…価値の適当な現象形態、または抽象的な、したがって同等な人間労働の物質化でありうるのは、ただ、どの一片をとってみてもみな同じ均等な質をもっている物質だけである。他方、価値量の相違は純粋に量的なものだから、貨幣商品は、純粋に量的な区別が可能なもの、つまり任意に分割することができ、その諸部分から再び合成することができるものでなければならない。ところが、金銀は生来これらの属性をもっているのである。
貨幣商品の使用価値は二重になる。それは、商品としてのその特殊な使用価値、たとえば金が虫歯の充填や奢侈品の原料などに役立つというような使用価値のほかに、その独自な社会的機能から生ずる一つの形態的使用価値を受け取るのである。
他のすべての商品はただ貨幣の特殊的等価物でしかなく、貨幣は他の諸商品の一般的等価物なのだから、他の諸商品は、一般的商品としての貨幣にたいして、特殊的諸商品として相対するのである。
貨幣形態は、他のすべての商品の関係の反射が一つの商品に固着したものでしかない。だから、貨幣が商品であるということは、ただ、貨幣の完成姿態から出発してあとからこれを分析しようとするものにとって一つの発見であるだけである。交換過程は、自分が貨幣に転化させる商品に、その価値を与えるのではなく、その独自な価値形態を与えるのである。…一商品の等価形態は、その商品の価値の大きさの量的な規定を含んではいない。金が貨幣であり、したがってすべての他の商品と直接に交換されうるものだということを知っていても、それだからといって、たとえば十ポンドの金にどれだけの価値があるのかがわかるわけではない。どの商品でもそうであるように、貨幣もそれ自身の価値量をただ相対的に他の商品で表わすことができるだけである。
困難は、貨幣が商品だということを理解することにあるのではなく、どのようにして、なぜ、なにによって、商品は貨幣であるのかを理解することにある。
すでに X量の商品A=Y量の商品B という最も単純な価値表現にあっても、他の一つの物の価値量がそれで表わされるところの物は、その等価形態をこの関係にはかかわりなく社会的な自然属性をもっているかのように見える。われわれはこのまちがった外観の固定化を追跡した。この外観は、一般的等価形態が一つの特別な商品種類の現物形態と合生すれば、または貨幣形態に結晶すれば、すでに完成している。
一商品は、他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表わすのではじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるから、他の諸商品が一般的に自分たちの価値をこの一商品で表わすように見える。媒介する運動は運動そのものの結果では消えてしまって、なんの痕跡も残していない。諸商品は、なにもすることなしに、自分自身の完成した価値姿態を、自分のソトに自分と並んで存在する一つの商品体として、眼前に見いだすのである。これらの物、金銀は、地の底から出てきたままで、同時にいっさいの人間労働の直接的化身である。ここに貨幣の魔術がある。人間の社会的生産過程における彼らの単なる原子的な行為は、したがってまた彼ら自身の生産関係の、彼らの制御や彼らの意識的個人的行為にはかかわりのない物的な姿は、まず第一に、彼らの労働生産物が一般的に商品形態をとるということに現われるのである。それゆえ、貨幣呪物の謎は、ただ、商品呪物の謎が人目に見え人目をくらますようになったものでしかないのである。