摘要ノート「資本論」(5)
資本論第一章 商品
第四節 商品の呪物的性格とその秘密
では、労働生産物は、なぜ価値という形態を取らねばならないのか、なぜ価値は自立した形態を持つようになるのか。
たとえば、材木で机を作れば、材木の形は変えられる。それにもかかわらず、机はやはり材木であり、ありふれた感覚的なものである。ところが、机が商品として現われるやいなや、それは一つの感覚的であると同時に超感覚的であるものになってしまうのである。机は、自分の足で床の上に立っているだけではなく、他のすべての商品にたいして頭で立っており、そしてその木頭からは、机が自分かってに踊りだすよりもはるかに奇怪な妄想を繰り広げるのである。
たとえば、古ぼけたガラクタのような茶碗がある。ある人がそれを高名な鑑定師のところへ持っていって、鑑定してもらったとしよう。数百円で買った茶碗を鑑定してもらったところ、骨董品として、数百万円という値段がついたとしよう。その持ち主は、それ以後、その茶碗の扱い方を変えるだろう。家の隅に押しやっていた存在から、床の間の真ん中へ。いや、その持ち主だけではない。そのことを知ったすべての人が、それを粗末には扱わなくなるであろう。特にそれを欲する者は、手に入れようと、自ら出向いて、交渉するであろう。価値を持つ物は、このように、人々の手から手へ扱われる際に、あたかも自立した存在のように自ら渡り合って行くのである。まるで、価値を持つ物は、その中に神が宿っているかのようである。このことは、何がしかの価値を持つすべての商品にも、当てはまる。「机は、自分の足で床の上に立っているだけでなく、他のすべての商品に対して頭で立って」いるのである。このことを、マルクスは商品の呪物的性格と呼んでいる。
商品の神秘的な性格は商品の使用価値からは出てこない。商品が使用価値であるかぎりでは、その諸属性によって人間の諸欲望を満足させるものだという観点から見ても、あるいはまた人間労働の生産物としてはじめてこれらの属性を得るものだという観点から見ても、商品には少しも神秘的なところはない。
それはまた価値規定の内容からも出てこない。なぜなら第一に、労働が人間有機体の諸機能だということ、またこのような機能は、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出であるということは、生理学上の真理だからである。第二に、価値量の根底にあるもの、すなわち前述の支出の継続時間、または、労働の量についても、この量は感覚的にも労働の質とは区別されうるものである。
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労働生産物が商品形態をとるとき、その謎のような性格はどこから生じるのか? 明らかにこの形態そのものからである。
商品形態の秘密はただ単につぎのことのうちにある。すなわち、商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも諸対象の彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。このような置き換えによって、労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚である物、または社会的な物になるのである。…ここで人間にとって諸物の関係という幻影的な形態をとるのものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。それゆえ、その類例を見出すためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げこまなければならない。ここでは、人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ独立した姿に見える。同様に、商品世界では人間の手の生産物がそうみえる。
これをわたしは呪物崇拝と呼ぶのであるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなやこれに付着するものであり、したがって商品生産と不可分なものである。
商品世界の呪物的性格は、商品を生産する労働の特有な社会的性格から生ずるのである。
およそ使用対象が商品になるのは、それらが互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならない。これらの私的諸労働の複合体は社会的総労働をなしている。生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的関係は、そのあるがままのものとして現われるのである。すなわち、諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的な諸関係として、現われるのである。
労働生産物は、それらの交換のなかではじめてそれらの感覚的に違った使用対象性から分離された社会的に同等な価値対象性を受け取るのである。このような、有用物と価値物とへの労働生産物の分裂は、交換がすでに十分な広がりと重要さをもつようになり、したがって有用な諸物が交換のために生産され、したがって諸物の価値性格がすでにそれらの生産そのものにさいして考慮されるようになったときに、はじめて実際に実証されるのである。この瞬間から、生産者たちの私的諸労働は一つの二重な社会的性格を受け取る。それは、一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲望を満たさなければならず、そのようにして自分を総労働の諸環として、社会的分業の自然発生的体制の諸環として、実証しなければならない。他面では、私的諸労働がそれら自身の生産者たちのさまざまな欲望を満足させるのは、ただ、特殊な有用な私的労働のそれぞれが別の種類の有用な私的労働のそれぞれと交換可能であり、したがってこれと同等と認められるかぎりでのことである。互いにまったく違っている諸労働の同等性は、ただ、諸労働の現実に不等性の捨象にしかありえない。すなわち、諸労働が人間の労働力の支出、抽象的人間労働としてもっている共通な性格への還元にしかありえない。私的生産者たちの頭脳は、彼らの私的諸労働のこの二重の社会的性格を、実際の交易、生産物交換で現れる諸形態でのみ反映し、ーしたがって、彼らの私的諸労働の社会的に有用な性格を、労働生産物が有用でなければならないという、しかも他人のために有用でなければならないという形態で反映しー、異種の諸労働の同等性という社会的性格を、これらの物質的に違った諸物の、諸労働生産物の、共通な価値性格という形態で反映するのである。
だから、人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等置することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等置するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行なうのである。それゆえ、価値の額に価値とはなんであるかが書いてあるのではない。価値は、むしろ、それぞれの労働生産物を一つの象形文字にするのである。あとになって、人間は象形文字の意味を解いて彼ら自身の社会的な産物の秘密を探りだそうとする。なぜならば、使用対象の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的な所産だからである。
労働生産物は、それが価値であるかぎりでは、その生産に支出された人間労働の単に物的な表現でしかないという後世の科学的発見は、人間発展史上に一時代を画するものではあるが、しかしそれはけっして労働の社会的性格の対象的外観を追い払うものではない。この特殊な生産形態、商品生産だけにあてはまること、すなわち、互いに独立な私的諸労働の独自な社会的性格はそれら労働の人間労働としての同等性にあるのであってこの社会的性格が労働生産物の価値性格の形態をとるのだということが、商品生産の諸関係のなかにとらわれている人々にとっては、かの発見の前にもあとにも、最終的なものに見えるのであって、それは、ちょうど、科学によって空気がその諸要素に分解されてもなお空気形態は一つの物理的な物体形態として存続しているようなものである。
生産物交換者たちがまず第一に実際に関心をもつのは、自分の生産物とひきかえにどれだけの他人の生産物が得られるか、つまり、生産物がどんな割合で交換されるか、という問題である。
この割合がある程度の慣習的固定性をもつまでに成熟してくれば、それは労働生産物の本性から生ずるかのように見える。たとえば、一トンの鉄と二オンスの金とが等価であることは、一ポンドの金と一ポンドの鉄とがそれらの物理的属性や科学的属性の相違にもかかわらず同じ重さであるのと同じことのように見える。じっさい、労働生産物の価値性格は、それらが価値量として実証されることによってはじめて固まるのである。この価値量のほうは、交換者たちの意志や予知や行為にはかかわりなく、絶えず変動する。交換者たち自身の社会的運動が彼らにとっては諸物の運動の形態をもつのであって、彼らはこの運動を制御するのでなくてこれによって制御されるのである。互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に互いに依存しあう私的諸労働が、絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合をつうじて、それらの生産物の生産に社会的に必要な労働時間が、たとえばだれかの頭上に家が倒れてくるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として強力的に貫かれるからである、という科学的認識が経験そのものから生まれてくるまでには、十分に発展した商品生産が必要なのである。それだから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の現象的な運動の下に隠れている秘密なのである。それの発見は、労働生産物の価値量の単に偶然的な規定という外観を解消させるが、しかしけっしてその物的な形態を解消させはしない。
諸商品の価値の大きさは、その商品を生産するために社会的に必要な労働の分量によって決まるのであるから、交換当事者の意志や予見や行為にかかわりなく、社会的な過程によって絶えず変動する。そのため交換当事者自身の社会的な運動が、彼らの目には、彼らがそれを制御するのではなく、彼らがそれによって制御される・諸物象の運動という形態をとるのである。だから商品の物神的性格――商品生産社会では生産者たちのあいだの生産諸関係が労働生産物のあいだの物象的関係としてあらわれ生産者たちを支配するようになること――は、商品生産社会の特殊的な構造によって条件づけられた客観的な現象であって、混乱した頭脳の産物ではない。
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人間生活の諸形態の考察、したがってまたその科学的分析は、一般に、現実の発展とは反対の道をたどるものである。それは、あとから始まるのであり、したがって発展過程の既成の諸結果から始まるのである。労働生産物に商品という極印を押す、したがって商品流通に前提されている諸形態は、人間たちが自分たちにはむしろすでに不変なものと考えられるこの諸形態の歴史的な性格についてではなくこの諸形態の内実について解明を与えようとする前に、すでに社会的生活の自然形態の固定性をもっているのである。このようにして、価値量の規定に導いたものは商品価格の分析にほかならなかったのであり、商品の価値性格の確定に導いたものは諸商品の共通な貨幣表現にほかならなかったのである。ところが、まさに商品世界のこの完成形態ー貨幣形態ーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである。
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商品生産社会よりほかの諸社会では生産諸関係は物的形態をとらない。
①《 島上のロビンソン 》
彼の財産目録のうちには、彼がもっている使用対象や、それらの生産に必要ないろいろな作業や、最後にこれらのいろいろな生産物の一定量が彼に平均的に費やさせる労働時間の一覧表が含まれている。ロビンソンと彼の自製の富をなしている諸物とのあいだのいっさいの関係はここではまったく簡単明瞭で…しかもなおそのうちには価値のすべての本質的な規定が含まれているのである。
ロビンソンの労働
(1)彼のおこなう各種の労働がどれも彼ひとりの人間の脳髄、神経、筋肉などの生理学的意味における支出であること
(2)彼の支出する労働の分量は労働の継続時間で計られる
(3)彼のおこなう各種の労働は、彼の総労働の一肢体をなしている
②《 暗い中世のヨーロッパ 》
あの独立した男(ロビンソン)に代わって、ここではだれもが従属しているのが見られるー農奴と領主、臣下と君主、俗人と聖職者。人的従属関係が物質的生産の社会的諸関係をも、その上に築かれている生活の諸部面をも特徴づけている。しかし、まさに人的従属関係が、与えられた社会的基礎をなしているからこそ、労働も生産物も、それらの現実性とは違った幻想的な姿をとる必要はないのである。労働や生産物は夫役や貢納として社会的機構のなかにはいって行く。労働の現物形態が、そして商品生産の基礎の上でのように労働の一般性がでなくその特殊性が、ここでは労働の直接に社会的な形態なのである。…それゆえ、ここで相対する人々がつけている仮面がどのように評価されようとも、彼らの労働における人と人との社会的関係は、どんな場合にも彼ら自身の人的関係として現れるのであって、物と物との、労働生産物と労働生産物との、社会的関係に変装されてはいないのである。
③( 家父長制的な勤労 )
共同的な、すなわち直接に社会化された労働を考察するため…手近な例は、(自給自足)する農民家族の素朴な家父長制的な勤労である。これらのいろいろな物は、家族にたいしてその家族労働のいろいろな生産物として相対するが、しかし、それら自身が互いに商品として相対しはしない。これらの生産物を生みだすいろいろな労働、農耕や牧畜や紡績や織布や裁縫などは、その現物形態のままで社会的な諸機能である。というのは、それらは、商品生産と同様にそれ自身の自然発生的な分業をもつ家族の諸機能だからである。…個人的労働力がはじめからただ家族の共同的労働力の諸器官として作用するだけである。
④最後に、気分を変えるために、共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体を考えてみよう。
ここでは、ロビンソンの労働のすべての規定が再現するのであるが、ただし、個人的にではなく社会的に、である。…この結合体の総生産物は、一つの社会的生産物である。この生産物の一部分は再び生産手段として役立つ。それは相変わらず社会的である。しかし、もう一つの部分は、結合体成員によって生活手段として消費される。したがって、それは彼らのあいだに分配されなければならない。この分配の仕方は、社会的生産有機体そのものの特殊な種類と、これに対応する生産者たちの歴史的発展とにつれて、変化するであろう。ただ商品生産と対比してみるために、ここでは、各生産者の手にはいる生活手段の分けまえは各自の労働時間によって規定されているものと前提しよう。そうすれば、労働時間は二重の役割を演ずることになるであろう。労働時間の社会的に計画的な配分は、いろいろな欲望にたいするいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働への生産者の個人的参加の尺度として役立ち、したがってまた共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的な分けまえの尺度として役立つ。人々が彼らの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的関係は、ここでは生産においてもやはり透明で単純である。
商品経済の社会を、こうして①から④まで、発展の異なるいろいろな人間社会とくらべてみると、商品経済以外の社会では、社会的な関係はすべて人間と人間の関係として簡単明瞭に現れ、物と物との関係という「変装」をしないこと、すべてが物と物との関係として現れ、経済の法則も人間から独立した強制法則として現れるというのは、商品経済だけの、歴史的に見て特別の問題だということが、浮き彫りになってくる。
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あのふるい社会的諸生産有機体は、ブルジョア的生産有機体よりもずっと単純で透明ではあるが、しかし、それらは、他の人間との自然的な種族関係の臍帯からまだ離れていない個人的人間の未成熟か、または直接的な支配隷属関係かにもとづいている。このような生産有機体は、労働の生産力の低い発展段階によって制約されており、またそれに対応して局限された、彼らの物質的な生活生産過程のなかでの人間の諸関係、したがって彼らどうしのあいだの関係と自然にたいする関係とによって制約されている。このような現実の被局限性は、観念的には古代の自然宗教や民族宗教に反映している。およそ、現実の世界の宗教的な反射は、実践的な日常生活の諸関係が人間にとって相互間および対自然のいつでも透明な合理的関係を表すようになったときに、はじめて消滅しうるのである。社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿は、それが自由に社会化された人間の所産として人間の意識的計画的な制御のもとにおかれたとき、はじめてその神秘なヴェールを脱ぎ捨てるのである。しかし、そのためには、社会の物質的基礎または一連の物質的存在条件が必要であり、この条件そのものがまた一つの長い苦悩にみちた発展史の自然発生的な所産なのである。
ところで、経済学は、不完全ながらも、価値と価値量とを分析し、これらの形態のうちに隠されている内容を発見した。
(注31)
しかし、価値一般について言えば、古典派経済学は、価値となって現れる労働を、その生産物の使用価値となって現れるかぎりでの同じ労働から、どこでも明文と明瞭な意識とをもっては区別していない。古典派経済学は、もちろん実際には区別をしている。というのは、それは労働をあるときには量的に、他のときには質的に、考察しているからである。しかし、 諸労働の単に量的な相違がそれらの質的な一元性または同等性を前提し、したがって諸労働の抽象的人間労働への還元を前提するということには、考えつかないのである。
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しかし、経済学は、なぜこの内容があの形態をとるのか、つまり、なぜ労働が価値に、そしてその継続時間による労働の尺度が労働生産物の価値量に表されるのか、という問題は、いまだかって提起したことさえなかったのである。
(注32)
古典派経済学の根本欠陥の一つは、商品の、また特に商品価値の分析から、価値をまさに交換価値となすところの価値の形態を見つけだすことに成功しなかったということである。古典派経済学は、価値形態をまったくどうでもよいものとして、または商品そのものの性質には外的なものとして、取り扱っているのである。その原因は、価値量の分析にすっかり注意を奪われてしまったということだけではない。それは、もっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式の最も抽象的な、しかしまた最も一般的な形態であって、これによってこの生産様式は、社会的生産の特殊な一種類として、したがってまた同時に歴史的に、特徴づけられているのである。それゆえ、この生産様式を社会的生産の永遠の自然形態と見誤るならば、必然的にまた、価値形態の、したがって商品形態の、さらに発展しては貨幣形態や資本形態などの独自性を見損なうことになるのである。
そこでは生産過程が人間を支配していて人間はまだ生産過程を支配していない社会構成体に属するものだということがその額に書かれている。諸定式は、経済学のブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものと同じに自明な自然必然性として認められている。それだから、社会的生産有機体の前ブルジョア的諸形態は、たとえばキリスト教以前の諸宗教が教父たちによって取り扱われるように、経済学によって取り扱われる。
(注33)
「経済学者たちは一つの奇妙なやり方をもっている。かれらにとってはただ二つの種類の制度があるだけである。人為的と自然的と。封建制の制度は人為的で、ブルジョアジーの制度は自然的である。この点では、彼らは、やはり二つの種類の宗教をたてる神学者たちと似ている。どの宗教でも、彼らのものでない宗教はすべて人間の発明であるが、彼ら自身の宗教は神の啓示である。…こういうわけで、かっては歴史というものがあったこともあるが、もはやそれはないのである。」(哲学の貧困)
かっては歴史が存在したというのは、封建制の諸制度がかって存在したし、これらの封建制の諸制度のなかには、ブルジョア社会の生産諸関係とはまったく異なる生産諸関係が見いだされるからである。ところが経済学者たちは、このブルジョア社会の生産諸関係を自然的なもの、したがって永久的なものとして、通用させようとするのである。
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商品形態は、ブルジョア的生産の最も一般的で最も未発展な形態であり、それだからこそ、今日と同じように支配的な、したがって特徴的な仕方ではないにせよ、早くから出現するのであって、そのためにその呪物的性格はまだ比較的容易に見抜かれるように見えるのである。それよりももっと具体的な諸形態では、この単純性の外観さえ消えてしまう。…重金主義は、金銀から、それらが貨幣としては社会的生産関係を、といっても特別な社会的属性をもった自然物の形態で、表わしているということを、見てとらなかった。
商品形態にあっては、物の使用価値はその物的属性にかかわりがないのに、その価値は物としてのそれにそなわっているということを見いだすのである。ここで彼らの見解を裏づけるものは、物の使用価値は人間にとって交換なしに、つまり物と人との直接的関係において実現されるが、物の価値は逆にただ交換においてのみ、すなわち一つの社会的過程においてのみ実現される、という奇妙な事情である。