社会的生産構成体の諸形態
労働生産物が商品形態をとるとき
「商品形態は人間に対して人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも諸対象の彼らの外に存在する社会的関係として反映させる。このような置き換えによって労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物になるのである。」
ある一定の数の人間がいる集団を考えよう。この人間達の間に、一人に一つずつ職業を割り振り、それを固定するとして、それぞれ自分勝手に職業を選択してもらうとしよう。すると、例えば、ある人数の漁師ができ、またある人数の猟師ができる。また、かれら個々人は、それぞれ別個のものを生産するが、生産したものは、それぞれの生産者の自身のもの(私的所有)になるとする。
そこで、生産活動を行わせる。その際、お互いに事前に相談せず、いわゆる生産調整をしないとしよう。すると、生産は無計画に行われ、生産物は、全体として余ったり足りなかったりするであろう(商品生産)。ところで、個々の独立した生産者たちは、必要な生活資料を手に入れるために、自分の産物を他人の産物と交換せねばならない。そこで、彼らは自分の職業によってそれぞれ異なった産物を持ち寄って、それをお互いに交換するとしよう。
そのとき「生産物交換者たちがまず第一に実際に関心をもつのは、自分の生産物とひきかえにどれだけの他人の生産物が得られるか、つまり、生産物がどんな割合で交換されるか、という問題である。この割合がある程度の慣習的固定性をもつまでに成熟してくれば、それは労働生産物の本性から生ずるかのように見える。」「じっさい、労働生産物の価値性格は、それらが価値量として実証されることによってはじめて固まるのである。」
これが、生産物が価値を持った、つまり商品になったということなのである。「使用対象が商品になるのは、それらが互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならない。」「生産者達は自分達の労働生産物の交換を通じてはじめて社会的に接触するようになる」。
ところで、生産物が足りなかったり余ったりするということは、実際に交換してみればわかる。ここで、足りなければ、価値が上がるだろうし、余っていれば、価値が下がるであろう。生産物が足りなかったりあまったりするということは、それを生産する職業に従事する人間の数が、足りなかったり余ったりしているということになる。したがって、価値が上がれば、生産者が増え、価値が下がれば、生産者が減ることになろう。そして最後には、ある一定の生産者の数に到達しよう。つまり、彼ら全部が日々生活していくために必要ないくつかの種類と量の生活資料に対して、それを生産するに必要な種類の労働とその必要時間を数え上げ、それらの合計(社会的総労働)を、人間の1日当たりに従事できる労働時間で割って算出した場合の職業人の必要数である。この状態で彼らが均等に労働すれば、この集団の必要な生活資料が日々供給されるはずである。
「この価値量のほうは、交換者たちの意思や予知や行為にはかかわりなく、絶えず変動する。…彼らはこの運動を制御するのではなく、これによって制御されるのである。互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に互いに依存しあう私的諸労働が、たえずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合をつうじて、それらの生産物の生産に社会的に必要な労働時間が、…規則的な自然法則として強力的に貫かれるからである…」
ここでは、「私的諸労働の複合体は社会的総労働をなしている。」個々人は、私的労働に従事しながら、しかし、全体としてみると、決して私的ではない。全体から、個々人の私的労働を見れば、それは、社会の必要性に則って、定められていることになる。この「彼らの私的労働の独自な社会的性格」は、交換において「社会的労働の諸環として実証される。それだから、生産者達にとっては、彼らの私的労働の社会関係は…諸個人の物的な関係…として現われる」。「労働生産物は、それらの交換の中ではじめてそれらの感覚的に違った使用対象性から分離された社会的に同等な価値対象性を受け取るのである。このような有用物と価値物とへの労働生産物の分裂は、交換がすでに十分な広がりと重要さを持つようになり、したがって有用な諸物が交換のために生産され…るようになったときに、はじめて実際に実証されるのである。この瞬間から、生産者たちの私的諸労働は実際に一つの二重の社会的性格を受け取る。それは、一面では、一定の有用労働として…他面では、…特殊な有用な私的労働のそれぞれが別の種類の有用な私的労働と交換可能であり…。」「私的生産者たちの頭脳は、彼らの私的諸労働のこの二重の社会的性格を、実際の交易、生産物交換で現われる諸形態でのみ反映させ、…彼らの私的諸労働の社会的に有用な性格を、労働生産物が…他人のために有用でなければならないという形態で反映させ、異種の諸労働の同等性という社会的性格を、…諸労働生産物の、共通な価値性格という形態で反映させる」。ここに商品としての使用価値と価値、それに対応した有用労働と抽象的人間労働一般との矛盾が表面化するのである。これは、人間は各人の労働を交換せねばならないのに、各人の労働は私的である、つまり、互いに独立して行われ依存しあっていないという矛盾に基礎付けられている。
「彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等置することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等置するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行うのである。」
商品経済以外の社会
個人に割り振られる労働のあり方、すなわち、社会的生産関係としては、論理的に次のように分類できる。
まず、一人の人間が、いくつかの異なった種類の労働を行い、その産物も自己消費する場合。これは自給自足の生活であり、島の中のロビンソンである。「必要そのものに迫られて、彼は自分の時間を精確に自分のいろいろな(生産的)機能のあいだに配分するようになる。」「ロビンソンと彼の自製の富をなしている諸物とのあいだのいっさいの関係はここではまったく簡単明瞭なので…」
このような人間の集団を考えると、その集団の内部で、それぞれ人間同士が孤立していて、自給自足の生活を送っている。生産物は、交換されていない。
次に、いくつかの異なった生産活動とその消費が違った人間に割り振られているが、一方は生産のみを行い、もう一方は消費のみを行う場合。この場合、このような人間の集団の内部では、生産物が生産する側の人間から、消費だけをする人間の側に、一方的に流れる。あるいは、生産する人間が消費する人間のところに直接行って、生産活動を行う。これは相互の交換ではなく、したがって生産物は商品とならない。
マルクスは、この集団の例として、ヨーロッパの中世を挙げている。中世は、同職組合のような団体的動産所有が存在する社会であるが、賦役や貢納がある。賦役は、労働を一方的に提供させられることであり、貢納とは、生産物を一方的に提供させられることである。生産物は行き先が決まっており、したがって、消費先が決まっている生産物は、商品ではない。
ここでは、「人的従属関係が物質的生産の社会的諸関係をも、その上に築かれている生活の諸部門をも特徴付けている」。これは、分業が特殊な身分として固定されており、各人の労働は、身分として誰の目にも社会的に明らかになっている。生産物の交換も、庶民の間で自由になされているのではなく、身分から身分へと一方的に流れている。ここでは、社会的分業が発展しているが、交換価値は生み出していない、少なくとも、主要ではない。
次に、生産と消費が違った人間に割り振られているが、お互いに平等に生産と消費を行う場合。
この場合、更に原理的に二つに分かれる。一つは、それが計画的に行われる場合。もう一つは、無計画に行われる場合。
まず、計画的に行われる場合として、家族内分業が挙げられる。「農民家族の素朴な家長制的な勤労」=家族内分業。家族も小さな人間集団である。男と女との自然的な分業に基づいて、家族共同体という社会のなかでは、生産に自然発生的な計画性があり、生産された生産物は、すべて家族内で自給自足的に消費される。その家族社会の中では、糸やリンネルが家族内の「社会的生産物」である。しかし、その生産物は、例えば他の家族と交換される必要がなく、商品を店頭に並べるといったような必要がなく、したがって交換価値という性格を持っていない。
「すべての文化民族の歴史の発端で見られるような労働の自然発生的な形態」。ここでは、おそらく部族社会が想定されているのであろうが、ここでも、家族内分業と同様に、各人の労働は、直接的な結びつきのなかにあり、交換価値は生まれていない。
また、無計画に行われる場合。無計画とは、各個人が生産者でもあり消費者でもあるという関係であり、各人はそれぞれ特殊な分業を割り当てられている集団でありながら、それぞれ勝手に生産を行い消費を行うという状況である。これが、商品生産の前提する社会であり、「職業選択の自由」が保障される社会である。
最初のロビンソン(彼には「諸労働を意識的計画的に配分するという明瞭さ」がある)と、この最後の人間の集団以外の集団では、生産と消費に関して集団的に何らかの調整と取り決めがなされているはずである。これが、集団すなわち共同体の役割である。
そしてこの「生産の前提になっている共同体」(人的従属関係)の存在が、「個人の労働が私的労働となること、および個人の労働生産物が私的生産物になること」をさまたげているのである。だから、こういう自然発生的な共同体がまったく存在しないブルジョア社会では、私的労働のみがばらばらに存在し、すべての労働生産物は、商品として店頭に並べなければならないことになる。
マルクスは「最後に」として、理想とする将来の社会を描き出している。「共同の生産手段で労働し自分達のたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体を考えてみよう。ここでは、ロビンソンの労働のすべての規定が再現するのであるが、ただし、個人的にではなく社会的に、である。」「ここでは、各生産者の手にはいる生活手段の分け前は各自の労働時間によって規定されているものと前提しよう。そうすれば…労働時間の社会的に計画的な配分は、いろいろな欲望に対するいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、…共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的分け前の尺度として役立つ。人々が彼らの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的関係は、ここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純である。」