摘要ノート「資本論」(27)

第九章 剰余価値率と剰余価値量

剰余価値の生産についてのこれまでの考察から明らかなように、どんな任意の貨幣額または価値額でも資本に転化できるのではなく、この転化には、むしろ、一人の貨幣所持者または商品所持者の手にある貨幣または交換価値の一定の最小限が前提されているのである。可変資本の最小限は、一年じゅう毎日剰余価値の獲得のために使われる一個の労働力の費用価格である。

資本主義的生産のある程度の高さは、資本家が資本家として、すなわち人格化された資本として機能する全時間を、他人の労働の取得したがってまたその監督のために、またこの労働の生産物の販売のために使用できるということを条件とする。手工業親方が資本家になることを、中世の同職組合制度は、一人の親方が使用してもよい労働者数の最大限を非常に小さく制限することによって、強圧的に阻止しようとした。貨幣または商品の所持者は、生産のために前貸しされる最少額が中世的最大限をはるかに超えるときに、はじめて現実に資本家になるのである。ここでも自然科学におけると同様に、ヘーゲルがその倫理学のなかで明らかにしているこの法則、すなわち、単なる量的な変化がある点で質的な相違に一変するという法則の正しいことが証明されるのである。

資本は、さしあたりは、歴史的に与えられたままの労働の技術的諸条件をもって、労働を自分に従属させる。したがって、資本は直接には生産様式を変化させない。それだから、これまでに考察した形態での、労働日の単純な延長による剰余価値の生産は、生産様式そのもののどんな変化にもかかわりなく現われたのである。

生産過程を労働過程の観点から考察すれば、労働者の生産手段にたいする関係は、資本としての生産手段にではなく、自分の合目的的な生産的活動の単なる手段および材料としての生産手段にたいする関係だった。たとえば製革業では、彼は獣皮を自分の単なる労働対象として取り扱う。彼が皮をなめすのは、資本家のためにするのでない。われわれが生産過程を価値増殖過程の観点から考察するやいなや、そうではなくなった。生産手段はたちまち他人の労働を吸収するための手段に転化された。もはや労働者が生産手段を使うのでなく、生産手段が労働者を使うのである。生産手段は、労働者によって彼の生産的活動の素材的要素として消費されるのでなく、労働者を生産手段自身の生活過程の酵素として消費するのであり、そして、資本の生活過程とは、自分自身を増殖する価値としての資本の運動にほかならないのである。溶鉱炉や作業用建物が夜間休止していてもはや生きている労働を吸収しないならば、それは資本家にとっては「ただの損失」である。それだからこそ、溶鉱炉や作業用建物は、労働力の「夜間労働にたいする要求権」を構成するのである。貨幣が生産過程の対象的諸要因すなわち生産手段に転化されるというただそれだけのことによって、生産手段は他人の労働および剰余労働にたいする権原および強制力原に転化されるのである。

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