摘要ノート「資本論」(25)

第八章 労働日

第六節 標準労働日のための闘争

法律による労働時間の強制的制限 1833-1864年のイギリスの工場立法

資本が数世紀を費やして労働日をその標準的な最大限度まで延長し、次にはまたこの限界を超えて12時間という自然日の限界まで延長したのちに、いま、18世紀の最後の三分の一期における大工業の誕生以来は、なだれのように激しい無際限な突進が起きた。風習と自然、年齢と性、昼と夜という限界は、ことごとく粉砕された。

生産の騒音に気をとられていた労働者階級がいくらか正気に帰ったとき、この階級の反抗が始まった。さしあたりまず大工業の生国イギリスで。とはいえ、30 年間というものは、この階級が奪い取った譲歩はまったく名目的なものでしかなかった。1802年から1833年までに議会は五つの労働関係法を成立させたが、…これらの法律は死文であるにとどまった。やっと 1833 年の工場法-木綿工場、羊毛工場,亜麻工場、絹工場に適用される-以来、近代産業にとって標準労働日が現われはじめる。1833年から 1864 年までのイギリスの工場立法の歴史以上によく資本の精神を特徴づけているものはない!

1844年6月7日の追加工場法は成立した。それは 1844年9月10日に発効した。それは労働者の新たな一部類を被保護者の列に加えている。すなわち、18歳以上の婦人である。彼女らはどの点でも少年と同等に扱われた。すなわち、その労働時間が 12 時間に制限され、夜間労働が禁止される、等々である。こうして、はじめて立法は成年者の労働をも直接かつ公的に取り締まることを余儀なくされたのである。

労働の時限や限界や中休みを鐘の音に合わせてこのように軍隊的に一様に規制するこれらのこまごまとした規定は、けっして議会的思案の産物ではなかった。それらは、近代的生産様式の自然法則として、諸関係のなかからだんだん発展してきたのである。それらの定式化や公認や国家による宣言は、長い期間にわたる階級闘争の結果だった。それらのさしあたりの結果の一つは、たいていの生産過程で児童や少年や婦人の強力が不可欠だったので実践は成年男子工場労働者の労働日をも同じ制限に従わせたということだった。それゆえ、だいたいにおいて、1844-1847年の時期には、工場立法のもとに置かれたすべての産業部門で12時間労働日が一般的に一様に行なわれたのである。

1847年6月8日の新しい工場法は、1847年7月1日からは「少年」(13歳から18歳までの)とすべての婦人労働者との労働日が暫定的に 11 時間に短縮されるべきこと、ただし1848年5月1日からは最終的に 10 時間に制限されるべきことを確定した。

原則は、近代的生産様式の独特な創造物である大工業部門での勝利によって、すでに勝利をおさめていた。1853-1860年の大工業のすばらしい発展は、工場労働者の肉体的および精神的な生まれ変わりを伴って、どんな鈍い目にもはっきり映った。法律による労働日の制限や規制を半世紀にわたる内乱によって一歩一歩かちとられた工場主たちでさえ、まだ「自由な」搾取領域との対照を誇らしげにさし示した。いまや「経済学」のパリサイ人たちは、法律によって規制される労働日の必然性への洞察を、彼らの「科学」の特徴的な新業績として宣言した。

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