商品生産ではおよそ使用価値が生産されるのは、ただそれが交換価値の物質的な基底、その担い手であるからであり、またそのかぎりでのことである。そして、われわれの資本家にとっては二つのことが肝要である。第一に、彼は交換価値をもっている使用価値を、売ることを予定されている物品を、すなわち商品を生産しようとする。そして第二に、彼は、自分の生産する商品の価値が、その生産のために必要な諸商品の価値総額よりも、すなわち商品市場で彼のだいじな貨幣を前貸しして手に入れた生産手段と労働力との価値総額よりも、高いことを欲する。彼はただ使用価値を生産しょうとするだけではなく、商品を、ただ使用価値だけでなく価値を、そしてただ価値だけでなく剰余価値を生産しようとするのである。
商品そのものが使用価値と価値との統一であるように、商品の生産過程も労働過程と価値形成過程との統一でなければならないのである。
われわれの資本家ははっとする。生産物の価値は前貸しされた資本の価値に等しい。前貸しされた価値は増殖されておらず、剰余価値を生んでおらず、従って、貨幣は資本に転化されていない。10ポンドの糸の価格は15シリングであり、そして15シリングは商品市場で生産物の形成要素に、または、同じことではあるが、労働過程の諸要因に支出された。すなわち、10シリングは綿花に、2シリングは紡錘量に、そして3シリングは労働力に。ふくれあがった糸の価値はなににもならない。なぜならば、糸の価値は、ただ以前に綿花や紡錘や労働力に分かれていた価値の合計でしかなく、そしてこのように既存の価値をただ単に加算することからはけっして剰余価値は生まれえないからである。
労働力に含まれている過去の労働と労働力がすることのできる生きている労働とは、つまり労働力の毎日の維持費と労働力の毎日の支出とは、二つのまったく違う量である。前者は労働力の交換価値を規定し、後者は労働力の使用価値をなしている。労働者を24時間生かしておくために半労働日が必要だということは、けっして彼がまる一日労働することを妨げはしない。だから、労働力の価値と、労働過程での労働力の価値増殖とは、二つの違う量なのである。…糸や長靴をつくるという労働力の有用な性質は、一つの不可欠な条件ではあったが、それは、ただ、価値を形成するためには労働は有用な形態で支出されなければならないからである。ところが、決定的なのは、この商品の独自な使用価値、すなわち価値の源泉でありしかもそれ自身がもっているよりも大きな価値の源泉だという独自な使用価値だった。これこそ、資本家がこの商品に期待する独自な役だちなのである。そして、その場合彼は商品交換の永久的法則に従って行動する。じっさい、労働力の売り手は、他のどの商品の売り手とも同じに、労働力の交換価値を実現してその使用価値を引き渡すのである。彼は、他方を手放さなければ一方を受け取ることはできない。労働力の使用価値、つまり労働そのものはその売り手のものではないということは、売られた油の使用価値が油商人のものではないようなものである。貨幣所持者は労働力の日価値を支払った。だか羅、一日の労働力の使用、一日中の労働は、彼のものである。労働力はまる一日活動し労働することができるにもかかわらず、労働力の一日の維持には半労働日しかかからないという事情、したがって、労働力の使用が一日につくりだす価値が労働力自身の日価値の二倍だという事情は、買い手にとっての特別な幸運ではあるが、けっして売り手にたいする不法ではないのである。
われわれの資本家には、彼をうれしがらせるこのような事情は前からわかっていたのである。それだから、労働者は六時間だけではなく十二時間の労働過程に必要な生産手段を作業場に見いだすのである。10ポンドの綿花が6労働時間を吸収して10ポンドの糸になったとすれば、20ポンドの綿花は12労働時間を吸収して20ポンドの糸になるであろう。この延長された労働過程の生産物を考察してみよう。20ポンドの糸には今では5労働日が対象化されている。4労働日は消費された綿花量と紡錘量とに対象化されていたものであり、1労働日は紡績過程のあいだに綿花によって吸収されたものである。ところが、5労働日の金表現は 30 シリング、すなわち1ポンド 30 シリングである。だから、これが 20 ポンドの糸の価格である。1ポンドの糸は相変わらず1シリング6ペンスである。しかし、この過程に投入された商品の価値総額は 27 シリングだった。糸の価格は 30 シリングである。こうして 27 シリングは 30 シリングになった。それは3シリングの剰余価値を生んだ。手品はついに成功した。貨幣は資本に転化されたのである。
問題の条件はすべて解決されており、しかも商品交換の法則は少しも侵害されていない。等価物が等価物と交換された。資本家は買い手として、どの商品にも、綿花にも紡錘量にも労働力にも価値どおりに支払った。次に彼は商品の買い手がだれでもすることをした。彼はこれらの商品の使用価値を消費した。労働力の消費過程、それは同時に商品の生産過程でもあって、30シリングという価値のある20ポンドの糸という生産物を生み出した。そこで資本家は市場に帰ってきて、前には商品を買ったのだが、今度は商品を売る。彼は糸1ポンドを1シリング6ペンスで、つまりその価値よりも1ペニーも高くも安くもなく、売る。それでも、彼は,はじめに彼が流通に投げ入れたよりも3シリング多くそこから取り出すのである。この全経過、彼の貨幣の資本への転化は、流通部面のなかで行われ、そしてまた、そこでは行われない。というのは、流通の媒介によって、というのは、商品市場で労働力を買うことを条件とするからである。流通では行われない,と言うのは、流通は生産部面で行なわれる価値増殖過程をただ準備するだけだからである。
[209] 資本家は貨幣をあらたな生産物の素材形成または労働過程の諸要因として役だつ諸商品に転化させることによって、すなわち諸商品の死んでいる対象性に生きている労働力を合体することによって、価値を、すなわちすでに対象化されて死んでいる過去の労働を、資本に、すなわち自分自身を増殖する価値に転化させるのであり、胸に恋でも抱いているかのように「働き」はじめる活気づけられた怪物に転化させるのである。
いま価値形成過程と価値増殖過程とを比べてみれば、価値増殖過程は、ある一定の点を越えて延長された価値形成過程にほかならない。もし価値形成過程が、資本によって支払われた労働力の価値が新たな等価物によって補填される点までしか継続しなければ、それは単純な価値形成過程である。もし価値形成過程がこの点を超えて継続すれば、それは価値増殖過程になる。
さらに価値形成過程を労働過程と比べてみれば、後者は、使用価値を生産する有用労働によって成り立っている。運動はここでは質的に、その特殊な仕方において、目的と内容とによって、考察される。同じ労働過程が価値形成過程ではただその量的な面だけによって現われる。もはや問題になるのは、労働がその作業に必要とする時間、すなわち労働力が有用的に支出される継続時間だけである。ここでは、労働過程にはいって行く諸商品も、もはや、合目的的に作用する労働力の機能的に規定された素材的な諸要因としては認められない。それらは、ただ対象化された労働の一定量として数えられるだけである。生産手段に含まれているにせよ労働力によってつけ加えられるにせよ,労働はもはやその時間尺度によって数えられるだけである。しかし、労働は、ただ、使用価値の生産に費やされた時間が社会的に必要であるかぎりで数にはいるだけである。
[211] 要するに、前には商品の分析から得られた、使用価値をつくるかぎりでの労働と価値をつくるかぎりでの同じ労働との相違が、今では生産過程の違った面の区別として示されているのである。労働過程と価値形成過程との統一としては、生産過程は商品の生産過程である。労働過程と価値増殖過程との統一としては、それは資本主義的生産過程であり、商品生産の資本主義的形態である。資本家によって取得される労働が、単純な社会的平均労働であるか、それとも、もっと複雑な労働、もっと比重の高い労働であるかは、価値増殖過程にとってはまったくどうでもよいのである。社会的平均労働に比べてより高度な、より複雑な労働として認められる労働は、単純な労働力に比べてより高い養成費のかかる、その生産のより多くの労働時間が費やされる、したがってより高い価値をもつ労働力の発現である。もしこの力の価値がより高いならば、それはまたより高度な労働として発現し、したがってまた同じ時間内に比較的より高い価値に対象化される。とはいえ…ただ彼自身の労働力の価値を補填するだけの労働部分は、彼が剰余価値をつくりだす追加的労働部分から、質的には少しも区別されないのである。相変わらず剰余価値はただ労働の量的超過だけにによって、同じ労働過程の、…延長された継続だけによって、出てくるのである。