労働力の使用は労働そのものである。使用価値または財貨の生産は、それが資本家のために資本家の監督のもとで行われることによっては、その一般的な性質を変えるものではない。それゆえ、労働過程はまず第一にどんな特定の社会的形態にも関わりなく考察されなければならない。
[192] 労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである。人間は、自然素材にたいして彼自身一つの自然力として相対する。彼は、自然素材を、彼自身の生活のために使用されうる形態で獲得するために、彼の肉体にそなわる自然力、腕や脚、頭や手を動かす。人間は、この運動によって自分の外の自然に働きかけてそれを変化させ、そうすることによって同時に自分自身の自然「天性」を変化させる。彼は、彼自身の自然のうちに眠っている潜在力を発現させ、その諸力の営みを彼自身の統御に従わせる。…くもは、織匠の作業にも似た作業をするし、蜜蜂はその蝋房の構造によって多くの人間の建築師を赤面させる。しかし、もともと、最悪の建築師でさえ最良の蜜蜂に勝っているというのは、建築師は蜜房を蝋で築く前にすでに頭のなかで築いているからである。労働過程の終わりには、そのはじめにすでに労働者の心象のなかには存在していた、つまり観念的にはすでに存在していた結果が出てくるのである。労働者は、自然的なものの形態変化をひき起こすだけでない。彼は、自然的なもののうちに、同時に彼の目的を実現するのである。その目的は、彼が知っているものであり、法則として彼の行動の仕方を規定するものであって、彼は自分の意志をこれに従わせなければならないのである。そして、これに従わせるということは、ただそれだけの孤立した行為ではない。労働する諸器官の緊張のほかに、注意力として現れる合目的な意志が労働の継続期間にわたって必要である。
労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのものとその対象とその手段である。労働によってただ大地との直接的な結びつきから引き離されるだけのものは、全て、天然に存在する労働対象である。原料はすべて労働対象であるが、労働対象はすべて原料であるとはかぎらない。労働対象が原料であるのは、ただ、すでにそれが労働によって媒介された変化を受けている場合だけである。
労働手段とは、労働者によって彼と労働対象とのあいだに入れられてこの対象への彼の働きかけの導体として彼の役だつ物またはいろいろな物の複合体である。
労働者が直接に支配する対象は、労働対象ではなくて、労働手段である。・・およそ労働過程がいくらかでも発達していれば、既にそれは加工された労働手段を必要とする。
死滅した動物種属の体制の認識にとって遺骨の構造がもっているのと同じ重要さを、死滅した経済的社会構成体の判定にとっては労働手段の遺物がもっているのである。なにがつくられるかではなく、どのようにして、どんな労働手段でつくられるかが、いろいろな経済的時代を区別するのである。労働手段は、人間の労働力の発達の測度器であるだけではなく、労働がそのなかでおこなわれる社会的諸関係の表示器でもある。
この全過程をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現われ、労働そのものは生産的労働として現われる。
その単純な抽象的な諸契機の労働過程は、使用価値をつくるための合目的的活動であり、人間の欲望を満足させるための自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的な条件であり、人間生活の永久的な自然条件であり、従って、この生活のどの形態にもかかわりなく、むしろ人間生活のあらゆる社会形態に等しく共通なものであるそれだから、われわれは労働者を他の労働者との関係のなかで示す必要がなかったのである。一方の側にある人間とその労働、他方の側にある自然とその素材、それだけで十分だったのである。