資本に転化するべき貨幣の価値変化はこの貨幣そのものには起こりえない。…第二の流通行為、商品の再販売からも変化は生じえない。なぜならば、この行為は商品をただ現物形態から」貨幣形態に再転化させるだけだからである。そこで変化は第一の行為G-Wで買われる商品に起きるのでなければならないが、しかしその商品の価値に起きるのではない。というのは、等価物どうしが交換されるのであり、商品はその価値どうりに支払われるのだからである。だから、変化はその商品の使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生ずるよりほかはない。ある商品の消費から価値を引き出すためには、われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で、見つけ出さなければならないであろう。そして、貨幣所持者は、市場でこのような独自な商品に出会うのである-労働能力または労働力に。
われわれが労働力または労働能力というのは、一人の人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させる肉体的および精神的諸能力の総体のことである。
貨幣が資本に転化するためには、貨幣所持者は商品市場で自由な労働者に出会わなければならない。自由というのは、二重の意味でそうなのであって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労働力のほかには商品として売るものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味で、自由なのである。
[183] 自然が、一方の側に貨幣または商品の所持者を生みだし、他方の側にただ自分の労働力だけの所持者を生みだすのではない。この関係は、自然史的な関係ではないし、また、歴史上のあらゆる時代に共通な社会的関係でもない。それは、明らかに、それ自体が、先行の歴史的発展の結果なのであり、多くの経済的変革の産物、たくさんの過去の社会的生産構成体の没落の産物なのである。
[184]
さきに考察した経済的諸範疇もまたそれらの歴史的な痕跡を帯びている。生産物の商品としての定在のうちには一定の歴史的な諸条件が包みこまれている。商品になるためには、生産物は、生産者自身のための直接的生活手段として生産されてはならない。われわれが、さらに進んで、生産物のすべてが、または単にその多数だけでも、商品という形態をとるのは、どんな事情のもとで起きるかを探求したならば、それは、ただ、まったく独自な生産様式である資本主義的生産様式の基礎の上だけで起きるものだということが見いだされたであろう。…商品生産や商品流通は、非常に大きな生産物量が直接に自己需要に向けられていて商品に転化していなくても、つまり社会的生産過程がまだまだその広さからも深さからも完全には交換価値に支配されていなくても、行われうる。生産物が商品として現れることは、社会内の分業がかなり発展して、最初は直接的物々交換に始まる使用価値と交換価値との分離がすでに実現されていることを条件とする。しかし、このような発展段階は、歴史的に非常に違ったいろいろな経済的社会構成体に共通なものである。
あるいはまた貨幣に目を向けるならば、それは商品交換のある程度の高さを前提する。種々の特殊な貨幣形態、単なる商品等価物、または流通手段、または支払手段、貨幣蓄蔵、世界貨幣はあれこれの機能の範囲の相違や相対的な重要さにしたがって、社会的生産過程の非常にさまざまな段階をさし示している。それにもかかわらず、これらのすべての形態が形成されるためには、経験の示すところでは、商品流通の比較的わずかな発達で十分である。資本はそうではない。資本の歴史的存在条件は、商品・貨幣流通があればそこにあるというものではけっしてない。資本は、生産手段や生活手段の所持者が市場で自分の労働力の売り手としての自由な労働者に出会うときにはじめて発生するのであり、そして、この一つの歴史的な条件が一つの世界史を包括しているのである。それだから、資本は、はじめから社会的生産過程の一時代を告げ知らせているのである。
労働力の価値規定
労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。
生活手段の総額は、労働する個人をその正常な生活状態にある労働する個人として維持するのに足りるものでなければならない。食物や衣服や採暖や住居などのような自然的な欲望そのものは、一国の気象その他の自然的な特色によって違っている。他方、いわゆる必要欲望の範囲もその充足の仕方もそれ自身一つの歴史的な産物であり、したがって、だいたいにおいて一国の文化段階によって定まるものであり、ことにまた、主として、自由な労働者の階級がどのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活要求をもって形成されたか、によって定まるものである。だから、労働力の価値規定は、他の諸商品の場合と違って、ある歴史的な精神的な要素を含んでいる。とはいえ、一定の国については、また一定の時代には、必要生活手段の平均範囲は与えられているのである。
補充人員すなわち労働者の子供の生活手段を含んでいるのであり、こうしてこの独特な商品所持者の種族が商品市場で永久化されるのである。
一般的な人間の天性を変化させて、一定の労働部門で技能と熟練とを体得して発達した独自な労働力になるようにするためには、一定の養成または教育が必要であり、これには大なり小なりの商品等価物が費やされる。…だから、この修業費は、…労働力の生産のために支出される価値のなかにはいる。
労働力の価値は、一定の総額の生活手段の価値に帰着する。したがってまた、労働力の価値は、この生活手段の価値、すなわちこの生活手段の生産に必要な労働時間の大きさにつれて変動するのである。
[187] 労働力の価値の最後の限界または最低限をなすものは、その毎日の供給なしには労働力の担い手である人間が自分の生活過程を更新することができないような商品量の価値、つまり、肉体的に欠くことのできない生活手段の価値である。もし労働力の価格がこの最低限まで下がれば、それは労働力の価値よりも低く下がることになる。なぜならば、それでは労働力は委縮した形でしか維持されることも発揮されることもできないからである。しかし、どの商品の価値も、その商品を正常な品質で供給するために必要な労働時間によって規定されているのである。
[189]
労働力の売買がその限界のなかで行われる流通または商品交換の部面は、じっさい、天賦の人権のほんとうのエデンだった。ここで支配しているのはただ、自由、平等、所有、ベンサムである。
自由! なぜならばある一つの商品、たとえば労働力の買い手も売り手も、ただ彼らの自由な意志によって規定されているだけだから。彼らは、自由な、法的に対等な人として契約する。契約は、彼らの意志がそれにおいて一つの共通な法的表現を与えられる最終結果である。
平等! なぜならば、彼らはただ商品所有者として互いに関係しあい、等価物と等価物とを交換するのだから。
所有! なぜならば、どちらも自分のものを処分するだけだから。
ベンサム! なぜならば、両者のどちらにとっても、かかわるところはただ自分だけだから。