とにかく、商品市場ではただ商品所持者が商品所持者に相対するだけであり、これらの人々がたがいに及ぼしあう力はただかれらの商品だけである。いろいろな商品の素材的な相違は、交換の素材的な動機であり、商品所持者たちを互いに相手に依存させる。というのは、彼らのうちのだれも自分自身の欲望の対象はもっていないで、めいめいが他人の欲望の対象をもっているのだからである。このような、諸商品の使用価値の素材的な相違のほかには、諸商品のあいだにはもう一つの区別があるだけである。すなわち商品の現物形態と商品の転化した形態との区別、商品と貨幣との区別である。したがって、商品所持者たちは、ただ、一方は売り手すなわち商品の所持者として、他方は買い手すなわち貨幣の所持者として、区別されるだけである。
流通のなかでは生産者と消費者とはただ売り手と買い手として相対するだけである。生産者にとっての剰余価値は、消費者が商品に価値よりも高く支払うと言うことから生ずる、と主張することは、商品所持者は売り手として高すぎる価格で売る特権をもっているという簡単な命題に仮面をつけるだけのことでしかない。売り手はその商品を自分で生産したか、またはその生産者を代表しているか、どちらかであるが、同様に買い手もまた彼の貨幣に表わされた商品を自分で生産したか、またはその生産者を代表しているか、どちらかである。だから、ここで相対するのは、生産者と生産者とである。彼らを区別するものは、一方は買い、他方は売る、ということである。商品所持者は、生産者という名では商品をその価値よりも高く売り、消費者という名では商品に高すぎる価格を支払うのだ、と言ってみても、それは、われわれを一歩も前進させるものではない。それゆえ、剰余価値は名目上の値上げから生ずるとか、商品を高すぎる価格で売るという売り手の特権から生ずるとかいう幻想を徹底的に主張する人々は、売ることなしにただ買うだけの、したがってまた生産することなしにただ消費するだけの、一つの階級を想定しているのである。・・・このような階級が絶えずものを買うための貨幣は、交換なしで、無償で、任意の権原や強力原にもとづいて、商品所持者たち自身から絶えずこの階級に流れてこなければならない。この階級に商品を価値より高く売るということは、ただで引き渡した貨幣の一部分を再びだまして取りもどすというだけのことである。
要するに、どんなに言いくるめようとしても、結局はやはり同じことなのである。等価物どうしが交換されるとすれば剰余価値は生まれないし、非等価物どうしが交換されるとしてもやはり剰余価値は生まれない。流通または商品交換は価値を創造しないのである。
貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきであり、したがって等価物どうしの交換が当然出発点とみなされる。いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣所持者は、商品をその価値どうりに買い、価値どうりに売り、しかも過程の終わりには、自分が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならない。彼の蝶への成長は、流通部面で行わなければならないし、また流通部面で行われてはならない。これが問題の条件である。ここがロドスだ、さあ跳んでみろ!