摘要ノート「資本論」(14)

第四章 貨幣の資本への転化

第一節 資本の一般的定式

[161] 商品流通は資本の出発点である。商品生産と、発達した商品流通すなわち商業とは、資本が成立するための歴史的な前提をなしている。世界商業と世界市場とは、十六世紀に資本の近代的生活史を開くのである。
商品流通の・・この過程が生み出す経済的な諸形態だけを考察するならば、この過程の最後の産物として貨幣を見いだす。商品流通の最後の産物は、資本の最初の現象形態である。歴史的には、資本は、土地所有にたいして、どこでも最初はまず貨幣の形で、貨幣財産として、商人資本および高利資本として相対する、とはいえ、貨幣を資本の最初の現象形態として認識するためには、資本の成立史を回顧する必要はない。同じ歴史は、毎日われわれの目の前で繰り広げられている。どの新たな資本も、最初に舞台に現われるのは、すなわち市場に、商品市場や労働市場や貨幣市場に姿を現わすのは、相変わらずやはり貨幣としてであり、一定の過程を経て資本に転化するべき貨幣としてである。

貨幣としての貨幣と資本としての貨幣とは、さしあたりはただ両者の流通形態の相違によって区別されるだけである。

[163] 流通 W-G-W では貨幣は最後に商品に転化され、この商品は使用価値として役だつ。だから、貨幣は決定的に支出されている。これに反して、逆の形態 G-W-G では、買い手が貨幣を支出するのは、売り手として貨幣を取得するためである。彼は商品を買うときには貨幣を流通に投ずるが、それは同じ商品を売ることによって貨幣を再び流通から引き上げるためである。彼が貨幣を手放すのは再びそれを手に入れるという底意があってのことにほかならない。それだから、貨幣はただ前貸しされるだけなのである。

[164] 循環 W-G-W は、ある一つの商品の極から出発して別の一商品の極で終結し、この商品は流通から出て消費されてしまう。それゆえ、消費、欲望充足、一言でいえば、使用価値が、この循環の最終目的である。これに反して、循環 G-W-G は、貨幣の極から出発して、最後に同じ極に帰ってくる。それゆえ、この循環の起動的動機も規定的目的も交換価値そのものである。
 単純な商品流通では両方の極が同じ経済的形態をもっている。それはどちらも商品である。それらはまた同じ価値量の商品である。しかし、それらは質的に違う使用価値、たとえば穀物と衣服である。生産物交換、社会的労働がそこに現れているいろいろな素材の変換が、ここでは運動の内容をなしている。流通 G-W-G ではそうではない。この流通は一見無内容に見える。というのは同義反復的だからである。どちらの極も同じ経済的形態をもっている。それは両方とも貨幣であり、したがって質的に違う使用価値ではない。なぜならば、貨幣こそは諸商品の転化した姿であり、諸商品の特殊な使用価値が消え去っている姿だからである。

[165] およそ或る貨幣額を他の貨幣額と区別することができるのは、ただその大きさの相違によってである。それゆえ、過程 G-W-G は、その両極がどちらも貨幣なのだから両極の質的な相違によって内容をもつのでなく、ただ両極の量的な相違によってのみ内容をもつのである。最後には、最初に流通に投げ込まれたよりも多くの貨幣が流通から引きあげられるのである。…それゆえ、この過程の完全な形態は、G-W-G' であって、ここでは、G'=G+⊿G である。すなわち G' は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値と呼ぶ。それゆえ、最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけでなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えるのであり、言いかえれば自分を価値増殖するのである。そして、この運動がこの価値を資本に転化させるのである。

[167] 単純な商品流通-買いのための売り-は、流通の外にある最終目的、使用価値の取得、欲望の充足のための手段として役立つ。これに反して、資本としての貨幣の流通は自己目的である。というのは、価値の増殖は、ただこの絶えず更新される運動のなかでだけに存在するのだからである。それだから、資本の運動には限度がないのである。
この運動の意識ある担い手として、貨幣所持者は資本家になる。彼の一身、またはむしろ彼のポケットは、貨幣の出発点であり帰着点である。あの流通の客観的内容―価値の増殖―が彼の主観的目的なのであって、ただ抽象的な富をますます多く取得することがかれの操作の唯一の起動的動機であるかぎりでのみ、彼は資本家として、または人格化された、意志と意識を与えられた資本として、機能するのである。だから使用価値はけっして資本家の直接的目的として取り扱われるべきものではない。個々の利得もまたそうではなく、ただ利得することの無休の運動だけがそうである。この絶対的な致福衝動、この熱病的な価値追求は、資本家にも貨幣蓄蔵者にも共通であるが、しかし、貨幣蓄蔵者は気の違った資本家でしかないのに、資本家は合理的な貨幣蓄蔵者なのである。価値の無休の増殖、これを貨幣蓄蔵者は、貨幣を流通から救い出そうとすることによって、追求するのであるが、もっとりこうな資本家は、貨幣を絶えず繰り返し流通に投げ込むことによってそれをなしとげるのである。

「この運動の意識ある担い手として、貨幣所持者は資本家になる。」「あの流通の客観的内容―価値の増殖―が彼の主観的目的なのであって、…彼は資本家として、または人格化され意志と意識を与えられた資本として、機能するのである。」
 資本家は、資本の人格化であり、彼の意識は、資本の運動の反映である。こうして、資本家が誕生する。

諸商品の価値が単純な流通のなかでとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。これに反して、流通 G-W-G では、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。価値は、この運動のなかで消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにしてひとつの自動的な主体に転化される。自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体となるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖であるからである。価値は、それが価値だから価値を生む、という神秘な性質を受け取った。それは、生きている仔を生むか、または少なくとも金の卵を生むのである。このような過程のなかで価値は貨幣形態と商品形態とを取ったり捨てたりしながらしかもこの変換のなかで自分を維持し自分を拡大するのであるが、このような過程の全面をおおう主体として価値はなによりもまず一つの独立な形態を必要とするのであって、この形態によって価値の自分自身との同一性が確認されなければならないのである。そして、このような形態を、価値はただ貨幣においてのみもっているのである。それだからこそ、貨幣は、どの価値増殖過程でもその出発点と終点とをなしているのである。

[170] つまり、価値は、過程を進みつつある価値、過程を進みつつある貨幣になるのであり、そしてこのようなものとして資本になるのである。それは、流通から出てきて、再び流通にはいって行き、流通のなかで自分を維持し自分を何倍にもし、大きくなって流通から帰ってくるのであり、そしてこの同じ循環を絶えず繰り返してまた新しく始めるのである。G-G’、貨幣を生む貨幣、これが資本の最初の通訳、重商主義者たちの口から出た資本の描写である。

売るために買うこと、または、もっと完全に言えば、より高く売るために買うこと、G-W-G' は、たしかに、ただ資本の一つの種類だけに、商人資本だけに、特有な形態のように見える。しかし、産業資本もまた、商品に転化し商品の販売によってより多くの貨幣に再転化する貨幣である。買いと売りの中間で、すなわち流通部面の外で、行われるかもしれない行為は、この運動形態を少しも変えるものではない。最後に利子生み資本では、流通 G-W-G' は、短縮されて、媒介のないその結果として、いわば簡潔体で、G-G' として、より多くの貨幣に等しい貨幣、それ自身よりも大きな価値として、現れる。
 要するに、実際に、G-W-G' は、直接に流通部面に現れているとおりの資本の一般的な定式なのである。


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