摘要ノート「資本論」(48)

第21章 単純再生産

生産過程は、その社会的形態がどのようであるかにかかわりなく、連続的でなければならない。言い換えれば、周期的に絶えず繰り返し同じ諸段階を通らなければならない。社会は、消費をやめることができないように、生産をやめることもできない。それゆえ、どの社会的生産過程も、それを一つの恒常的な関連のなかで、またその更新の不断の流れのなかで見るならば、同時に再生産過程なのである。
 生産の諸条件は同時に再生産の諸条件である。どんな社会も、その生産物の一部分を絶えず生産手段に、または新たな生産の諸要素に再転化させることなしには、絶えず生産することは、すなわち再生産することは、できない。・・・だから、年間の生産物の一定量は生産のためのものである。それは、もとから生産的消費に向けられていて、その大部分は、おのずから個人的消費を排除するような現物形態で存在するのである。

もし生産が資本主義的形態のものであれば、再生産もそうである。資本主義的生産様式では労働過程はただ価値増殖過程の一手段として現われるだけであるが、同様に再生産もただ前貸価値を資本として、すなわち自己増殖価値として再生産するための一手段として現われるだけである。資本家という経済的扮装が或る人に固着しているのは,ただ彼の貨幣が絶えず資本として機能しているというだけによるのである。たとえば、100ポンドの前貸貨幣額が今年資本に転化されて20ポンドの剰余価値を生むとすれば、それは来年もそれから先も同じ働きを繰り返さなければならない。資本価値の周期的増加分、または過程進行中の資本の周期的果実としては、剰余価値は資本から生ずる収入という形態を受け取る。

「他人の労働の生産物を消費する富者は、それをただ交換行為によってのみ入手する。…だから、彼らはやがて彼らの準備金を使い切ってしまうおそれがあるように見える。…ところが、社会的秩序のもとでは、富は、他人の労働によって自分を再生産する力を得ている。…富は、労働と同じように、また労働によって、年々の果実をもたらすのであって、この果実を富者は貧しくなることなしに毎年消費することができるのである。この果実は資本から生ずる収入である。」(シスモンディ『新経済学原理」)

もしこの収入が資本家にとってただ消費財源として役立つだけならば、言い換えれば、周期的に得られただけが、周期的に消費されるならば、他の事情が変わらないかぎり、単純再生産が行なわれる。この単純再生産は、同じ規模での生産過程の単なる繰り返しであるとはいえ、この単なる繰り返しまたは連続がこの過程にいくつかの新しい性格を押印するのである。または、むしろ、それを単なる個別的な過程のように見せる外観上の性格を解消させるのである。生産過程は、一定時間を限っての労働力の買い入れによって準備され、そして、この準備は、労働の販売期限が到来し、したがって一定の生産期間、たとえば週や月などが終わるごとに、絶えず更新される。しかし、労働者は、彼の労働力が働いてそれ自身の価値をも剰余価値をも商品に実現してから、はじめて支払いを受ける。つまり、彼は、われわれがしばらくはただ資本家の消費財源としか見ない剰余価値を生産するのと同様に、自身への支払いの財源である可変資本をも、それが労賃の形で彼の手に還流してくる前に生産しているのであり、しかも彼は絶えずこの財源を再生産するかぎりでのみ使用されるのである。それだからこそ、すなわち賃金を生産物そのものの分けまえとして示す定式(第16章のB)が生じたのである。労働者自身によって絶えず再生産される生産物の一部分、それが労賃の形で絶えず労働者の手に還流するのである。…資本家階級は労働者階級に、後者によって生産されて前者によって取得される生産物の一部分を指示する証文を、絶えず貨幣形態で与える。この証文を労働者は同様に絶えず資本家階級に返し、これによって、彼自身の生産物のうちの彼自身のものになる部分を資本家階級から引き取る。生産物の商品形態と商品の貨幣形態とがこの取引を変装させるのである。
 可変資本は、ただ、労働者が彼の自己維持と再生産とのために必要とし社会的生産のどんな体制のもとでもつねに自分で生産し再生産しなければならない生活手段財源または労働財源の一つの特殊な歴史的現象形態でしかないのである。労働財源が彼の労働の支払手段という形で絶えず彼の手に流れてくるのは、ただ、彼自身の生産物が絶えず資本という形で彼から遠ざかるからでしかない。だが、このような労働財源の現象形態は、労働者には彼自身の対象化された労働が資本家によって前貸しされるのだということを少しも変えるものではない。

資本主義的生産過程の単なる連続、すなわち単純再生産は、まだそのほかにも、ただ可変資本部分だけではなく総資本をもとらえる奇妙な変化をひき起こす。生産過程の単なる連続、すなわち単純再生産によっても、長短の期間の後には、どの資本も必然的に蓄積された資本または資本化された剰余価値に転化されるのである。資本そのものが生産過程にはいったときにはその充用者が自分で働いて得た財産だったとしても、おそかれ早かれ、それは、等価なしで取得された価値、または、貨幣形態であろうとなかろうと、他人の不払労働の物質化になるのである。
 貨幣を資本に転化させるためには、商品生産と商品流通とが存在するだけではたりなかった。まず第一に、一方には価値または貨幣の所有者、他方には価値を創造する実体の所持者が、一方には生産手段と生活手段との所持者、他方にはただ労働力だけの所持者が、互いに買い手と売り手として相対していなければならなかった。つまり、労働生産物と労働そのものとの分離、客体的な労働条件と主体的な労働力との分離が、資本主義的生産過程の事実的に与えられた基礎であり出発点だったのである。ところが、はじめはただ出発点でしかなかったものが、過程の単なる連続、単純再生産によって、資本主義的生産の特有な結果として絶えず繰り返し生産されて永久化されるのである。一方では生産過程は絶えず素材的富を資本に転化させ、資本家のために価値増殖手段と享楽手段とに転化させる。他方ではこの過程から絶えず労働者が、そこにはいったときと同じ姿で-富の人的源泉ではあるがこの富を自分のために実現するあらゆる手段を失っている姿で-出てくる。彼がこの過程にはいる前に、彼自身の労働は彼自身から疎外され、資本家のものとされ、資本に合体されているのだから、その労働はこの過程のなかで絶えず他人の生産物に対象化されるのである。生産過程は同時に資本家が労働力を消費する過程でもあるのだから、労働者の生産物は、絶えず商品に転化されるだけではなく、資本に、すなわち価値を創造する力を搾取する価値に、人身を買う生活手段に、生産者を使用する生産手段に、転化されるのである。それだから、労働者自身は絶えず客体的な富を、資本として、すなわち彼にとって外的な、彼を支配し搾取する力として、生産するのであり、そして資本家もまた絶えず労働力を、主体的な、それ自身を対象化し実現する手段から切り離された、抽象的な、労働者の単なる肉体のうちに存在する富の源泉として、生産するのであり、簡単に言えば労働者を賃金労働者として、生産するのである。このような、労働者の不断の再生産または永久化が、資本主義的生産の不可欠の条件なのである。

われわれが、個々の資本家と個々の労働者とにでなく、資本家階級と労働者階級とに目を向け、商品の個別的生産過程ではなく、資本主義的生産過程をその流れとその広がりとのなかで見るならば、事態は別の様相を呈していくる。-資本家が彼の資本の一部分を労働力に転換すれば、それによって彼は彼の総資本を増殖する。…労働力と引き換えに手放される資本は生活手段に転化され、この生活手段の消費は、現存する労働者の筋肉や神経や骨や脳を再生産して新しい労働者を生みだすことに役だつ。それゆえ、絶対的に必要なものの範囲内では、労働者階級の個人的消費は、資本によって労働力と引き換えに手放された生活手段の、資本によって新たに搾取されうる労働力への再転化である。それは資本家にとって最も不可欠な生産手段である労働者そのものの生産であり再生産である。

資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分離を再生産する。したがって、それは労働者の搾取条件を再生産し永久化する。それは、労働者には自分の労働力を売って生きてゆくことを絶えず強要し、資本家にはそれを買って富をなすことを絶えず可能にする。資本家と労働者とを商品市場で買い手と売り手として向かい合わせるものは、もはや偶然ではない。一方の人を絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げ返し、また彼自身の生産物を絶えず他方の人の購買手段に転化させるものは、過程そのものの必至の成り行きである。実際、労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本に属しているのである。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新や彼の個々の雇い主の入れ替わりや労働の市場価格の変動によって媒介されていると同時におおい隠されているのである。

こうして、資本主義的生産過程は、関連のなかで見るならば、すなわち再生産過程としては、ただ商品だけではなく、ただ剰余価値だけでなく、資本関係そのものを、一方には資本家を、他方には賃金労働者を、生産し再生産するのである。

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