労働力の価格と剰余価値との相対的な大きさは次の三つの事情に制約されている。
(1) 労働日の長さ、すなわち労働の外延量
(2) 労働の正常な強度、すなわち労働の内包量。したがって一定の時間に一定の労働量が支出されるということ。
(3) 最後に労働の生産力。したがって生産条件の発展度に従って同量の労働が同じ時間に供給する生産物の量が大きかったり小さかったりするということ。
この前提のもとでは労働力の価値と剰余価値とは三つの法則によって規定されている。
第一に、与えられた長さの一労働日は、たとえどのように労働の生産性が、またそれにつれて生産物量が、したがってまた個々の商品の価格が変動しよう
第二に、労働力の価値と剰余価値とは互いに反対の方向に変動する。労働の生産力の変動、その増進または減退は、労働力の価値には逆の方向に作用
第三に、剰余価値の増加または減少は、つねに、それに対応する労働力の価値の低下または上昇の結果であって、けっしてその原因ではないのである。
労働の強度の増大は、同じ時間内の労働支出の増加を意味する。それゆえ、強度のより大きい労働日は、同じ時間数の強度のより小さい労働日に比べてより多くの生産物に具体化されるのである。生産力が高くなっても、やはり同じ労働日がより多くの生産物を供給する。しかし、この場合には個々の生産物には以前より少ない労働が費やされるのでその価値は下がるが、前のほうの場合には生産物には相変わらず同量の労働がかかるのでその価値は元と変わらない。生産物の数は、この場合には、生産物の価格が下がることなしに、増加する。生産物の数とともにその価格総額も増大するが、生産力が高くなる場合には同じ価値総額がただ増大した生産物量に表わされるだけである。だから、時間数が元のままならば、強度のより大きい労働日はより大きい価値生産物に具体化され、したがって、貨幣の価値が元のままならば、より多くの貨幣に具体化される。この労働日の価値生産物は、その強度が社会的標準度からどれだけずれるかによって,違ってくる。だから,同じ労働日が、以前のように不変な価値生産物に表わされるのではなく、可変な価値生産物に表わされるのであ(る)。労働の強度がすべての産業部門で同時に同程度に高くなるとすれば、新たなより高い強度が普通の社会的標準度になり、したがって外延量としては数えられなくなるであろう。しかし、その場合にも労働の平均強度が国によって違うことに変わりはなく、したがってそれはいろいろに違った各国の労働日への価値法則の適用を修正するであろう。強度のより大きい一国の一労働日は、強度のより小さい他の国の一労働日に比べれば、より大きい貨幣表現に表わされるのである。
労働日は二つの方向に変化することがありうる。それは短縮されるか、延長されるか、である
(1) 短縮の場合
労働日の短縮は、労働力の価値をしたがってまた必要労働時間を変化させない。それは剰余労働を短くし、剰余価値を減らす。剰余価値の絶対量とともにその相対量も、すなわち労働力の不変な価値量にたいする剰余価値量の割合も減少する。ただ労働力の価格をその価値より低く押し下げることによってのみ資本家は損害を免れることができるであろう。
(2) 延長の場合
労働力の価格が変わらないならば、剰余価値の絶対量とともにその相対量も増大する。労働力の価値量は絶対的には変わっていないにもかかわらず、相対的には下がっている。
(1) 労働の生産力が低下して同時に労働日が延長される場合
ここで労働の生産力の低下というのは、その生産物が労働力の価値を規定する労働部門についてのことであって、たとえば、土地の不毛度の増大によって労働の生産力が低下し、それに対応して土地生産物が騰貴する場合である。1799年から1815年までの期間にイギリスでは生活手段の価格騰貴は、生活手段で表わされる現実の労賃が下がったのに、名目的な賃金引上げを伴った。このことから、ウェストやリカードは、農耕労働の生産性の減退が剰余価値率の低下をひき起こしたという結論を引き出し、この彼らの空想のなかでしか妥当しない仮定を、労賃と利潤と地代との相対的な量的関係についての重要な分析の出発点にした。ところが、高められた労働の強度と強制された労働時間の延長とのおかげで、剰余価値は当時は絶対的にも相対的にも増大したのである。この時代こそは、無限度な労働日の延長が市民権を獲得した時代だったのであり、一方では資本の、他方では極貧の、加速的な増加によって特別に特徴づけられた時代だったのである。
(2) 労働の強度と生産力とが増大して同時に労働日が短縮される場合
労働の生産力の上昇と労働の強度の増大とは、一面から見れば、同じ形で作用する。両方とも、各期間内に得られる生産物量を増加させる。したがって、両方とも、労働日のうち労働者が自分の生活手段またはその等価を生産するのに必要な部分を短縮する。労働日の絶対的な最小限界は、一般に、労働日のこの必要ではあるが収縮の可能な構成部分によって、画される。一労働日が全体がそこまで収縮すれば、剰余労働は消滅するであろうが、それは資本の支配体制の下ではありえないことである。資本主義的生産形態の廃止は、労働日を必要労働だけに限ることを許す。とはいえ、必要労働は、その他の事情が変わらなければ、その範囲を拡大するであろう。なぜならば、一方では、労働者の生活条件がもっと豊になり、彼の生活上の諸要求がもっと大きくなるからである。また、他方では、今日の剰余労働の一部分は必要労働に、すなわち社会的な予備財源と蓄積財源との獲得に必要な労働に、数えられるようになるであろう。
労働の生産力が増進すればするほど労働日は短縮されることができるし、また労働日が短縮されればされるほど労働の強度は増大することができる。社会的に見れば、労働の生産性は労働の節約につれても増大する。この節約には、単に生産手段の節約だけでなく、いっさいの無用な労働を省くことが含まれる。資本主義的生産様式は、各個の事業では節約を強制するが、この生産様式の無政府的な競争体制は、社会全体の生産手段と労働力との最も無限度な浪費を生みだし、それとともに、今日では欠くことのできないにしてもそれ自体としてはよけいな無数の機能を生みだすのである。る道の強度と生産力とが与えられていれば、労働がすべての労働能力のある社会成員のあいだに均等に配分されていればいるほど、すなわち、社会の一つの層が労働の自然必然性を自分からはずして別の層に転嫁することができなければできないほど、社会的労働日のうちの物質的生産に必要な部分はますます短くなり、したがって、個人の自由な精神的・社会的活動のために利用される時間部分はますます大きくなる。労働日の短縮の絶対的限界は、この面から見れば、労働の普遍性である。資本主義社会では、ある一つの階級のための自由な時間が、大衆のすべての生活時間が労働時間に転化されることによって、つくりだされるのである。