摘要ノート「資本論」(43)

第五編 絶対的および相対的剰余価値の生産

第14章 絶対的および相対的剰余価値

およそ生産物は、個人的生産者の直接的生産物から一つの社会的生産物に、一人の全体労働者の共同生産物に、すなわち労働対象の取り扱いに直接または間接に携わる諸成員が一つに結合された労働要員の共同生産物に、転化する。それゆえ、労働過程そのものの協業的な性格につれて、必然的に、生産的労働の概念も、この労働の担い手である生産的労働者の概念も拡張されるのである。生産的に労働するためには、もはやみずから手を下すことは必要ではない。全体労働者の器官であるということだけで、つまりその部分機能のどれか一つを果たすということだけで、十分である。前に述べた生産的労働の本源的な規定は、物質的生産の性質そのものから導き出されたもので、全体としてみた全体労働者については相変わらず真実である。しかし、個別に見たその各個の成員には、それはもはやあてはまらないのである。ところが、他方では、生産的労働の概念は狭くなる。資本主義的生産は単に商品の生産であるだけでなく、それは本質的に剰余価値の生産である。労働者が生産するのは、自分のためではなく、資本のためである。だから、彼がなにかを生産するというだけでは、もはや十分ではない、彼は剰余価値を生産しなければならない。生産的であるのは、ただ、資本家のために剰余価値を生産する労働者、すなわち資本の自己増殖に役だつ労働者だけである。…それゆえ、生産的労働者の概念は、けっして単に活動と有用効果との関係、労働者と労働生産物との関係を包括するだけでなく、労働者に資本の直接的増殖手段の極印を押す一つの独自に社会的な、歴史的に成立した生産関係をも包括するのである。

労働者がただ自分の労働力の価値の等価だけを生産した点を越えて労働日が延長されること、そしてこの剰余労働が資本によって取得されることーこれは絶対的剰余価値の生産である。それは、資本主義体制の一般的な基礎をなしており、また相対的剰余価値の生産の出発点をなしている。この相対的剰余価値の生産では、労働日ははじめから二つの部分に分かれている。すなわち、必要労働と剰余労働とに。剰余労働を延長するためには、労賃の等価をいっそう短時間に生産する諸方法によって、必要労働が短縮される。絶対的剰余価値の生産はただ労働日の長さだけを問題にする。相対的剰余価値の生産は労働の技術的諸過程と社会的諸編成を徹底的に変革する。だから、相対的剰余価値の生産は、一つの独自な資本主義的生産様式を前提にするのであって、この生産様式は、その諸方法、諸手段、諸条件そのものとともに、最初はまず資本のもとへの労働の形式的従属を基礎として自然発生的に発生して育成されるのである。この形式的従属に代わって、資本のもとへの労働の実質的従属が現われるのである。

一般に、独自な資本主義的生産様式は、それが一つの生産部門全体を征服してしまえば、ましてすべての決定的な生産部門を征服してしまえば、もはや相対的剰余価値生産の単なる手段ではなくなる。それはいまや生産過程の一般的な、社会的に支配的な形態となる。それが相対的剰余価値生産のための特殊な方法として作用するのは、第一には、ただ、これまではただ形式的に資本に従属していた諸産業をそれがとらえる場合、つまりその普及にさいしてだけのことである。第二には、ただ、すでにとらえられている諸産業が引き続き生産方法の変化によって変革されるかぎりでのことである。資本主義的生産様式がすでに確立されて一般的な生産様式となってしまえば、およそ剰余価値率を高くすることが問題となるかぎり、絶対的剰余価値と相対的剰余価値との相違はつねに感知されざるをえない。労働力が価値どおりに支払われることを前提にすれば、われわれは次の二つのどちらかを選ばなければならない。労働の生産力とその正常な強度とが与えられていれば、剰余価値率はただ労働日の延長によってのみ高められる。他方、労働日の限界が与えられていれば、剰余価値率は、ただ必要労働と剰余労働という労働日の二つの構成部分の大きさの相対的な変動によってのみ高められ、この変動はまた、賃金が労働力の価値よりも低く下がるべきでないとすれば、労働の生産性かまたは強度の変動を前提する。

 もし労働者が彼自身や彼の子孫の維持に必要な生活手段を生産するのに彼の時間の全部を必要とするならば、彼には第三者のために無償で労働する時間は残らない。ある程度の労働の生産性がなければ、労働者がこのように処分しうる時間はないし、このような余分な時間がなければ、剰余労働はなく、したがって資本家もなく、さらにはまた奴隷所有者も封建貴族も、一口に言えばどんな大有産者階級もないのである。…人間が彼らの最初の動物状態からやっと抜け出してきて、彼らの労働そのものもすでにある程度まで社会化されてきたときに、はじめて、ある人の剰余労働が他の人の生存条件になるような諸関係が現われる。文化の初期には、労働の既得の生産力は小さなものであるが、欲望もまた小さいのであって、欲望はその充足手段とともに、またこの手段によって、発達するのである。さらに、このような初期には、他人の労働によって生活する社会部分の割合は、大ぜいの直接生産者に比べれば目にはいらないほど小さい。労働の社会的生産力が増進するにつれて、この割合は絶対的にも相対的にも増大する。そのうえに、資本関係は、長い発展過程の産物である経済的な土台の上で発生する。資本関係がそこから出発する基礎となる既存の労働の生産性は、自然のたまものではなく、何千もの世紀を包括する歴史の所産なのである。

 社会的生産の姿が発展しているかいないかにかかわりなく、労働の生産性はつねに自然条件に結びつけられている。これらの自然条件は、すべて、人種などのような人間そのものの自然と、人間を取り巻く自然とに還元されうるものである。外的な自然条件は経済的には二つの大きな部類に分かれる。生活手段としての自然の富、すなわち土地の豊かさや魚の豊富な河海などと、労働手段としての自然の富、たとえば勢いのよい落流、航行可能な河川、樹木、金属、石炭、等々とに、分かれる。文化の初期には、第一の種類の自然の富が決定的であり、もっと高い発展段階では第二の種類の自然の富が決定的である。どうしても充足されなければならない自然的欲望の数が少なければ少ないほど、そして自然的な土地の豊かさや気候の恩恵が大きければ大きいほど、生産者の維持と再生産とに必要な労働時間はそれだけ少ない。したがって、生産者が自分自身のために行なう労働以上に他人のために行なう余分な労働は、それだけ大きなものでありうる。…古エジプトの大建造物は、その人口の大きさよりも、むしろ人口のうち自由に利用されうる部分の割合が大きかったことによって、できたものである。個々の労働者はその必要労働時間が短いほどそれだけ多くの剰余労働を提供することができるが、それと同じに、労働者人口のうちの必要生活手段に必要な部分が小さければ小さいほど、ほかの仕事に利用されうる部分はそれだけ大きいのである。すでに資本主義的生産が前提されていれば、他の事情が不変で労働日の長さが与えられている場合には、剰余労働の大きさは、労働の自然条件につれて、また土地の豊度につれて、違ってくるであろう。しかしけっして、その逆に最も豊饒な土地が資本主義的生産様式の成長に最も適した土地だということにはならない。この生産様式は人間による自然の支配を前提する。…植物の繁茂した熱帯ではなく、むしろ温帯こそは、資本の母国である。土地の絶対的な豊かさでなく、土地の分化、土地の天然産物の多様性こそ、社会的分業の自然的基礎をなすものであり、人間を取り巻く自然環境の変化によって人間を刺激して人間自身の欲望や能力や労働手段や労働様式を多様化させるものである。一つの自然力を社会的に制御する必要、それを節約するとか、それを大規模な人工によってはじめて取り入れるとか、馴らすとかする必要は、産業史の上で最も決定的な役割を演じている。…恵まれた自然条件は、常に、ただ、剰余労働したがってまた剰余価値または剰余生産物の可能性を与えるだけで、けしってその現実性を与えるのではない。労働の自然条件の相違は、同量の労働によってみたされる欲望の量が国によって違うことの原因となり、したがって、その他の事情が同様ならば、必要労働時間が違うことの原因となる。自然条件が剰余労働に作用するのは、ただ、自然的限界として、すなわち、他人のための労働を始めることができる時点をさだめることによって、である。産業が進歩してくるにつれて、この自然的限界は後退して行く。

労働の歴史的に発達した社会的な生産諸力がそうであるように、労働の自然によって制約された生産諸力も、労働が合体される資本の生産諸力として現われる。

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