農業の部面では、大工業は、古い社会の堡塁である「農民」を滅ぼして賃金労働者をそれに替えるかぎりで、最も革命的に作用する。こうして、農村の社会的変革要求と社会的諸対立は都市のそれと同等にされる.旧習になずみきった不合理きわまる経営に代わって、科学の意識的な技術的応用が現われる。農業や製造工業の幼稚未発達な姿にからみついてそれらを結合していた原子的な家族紐帯を引き裂くことは、資本主義的生産様式によって完成される。しかし、同時にまた、この生産様式は、一つの新しい、より高い総合のための、すなわち農業と工業との対立的につくりあげられた姿を基礎として両者を結合するための、物質的諸前提をもつくりだす。資本中儀的生産は、それによって大中心地に集積される都市人口がますます優勢になるにつれて、一方では社会の歴史的動力を集積するが、他方では、人間と土地とのあいだの物質代謝を攪乱する。すなわち、人間が食料や衣料の形で消費する土地成分が土地に帰ることを、つまり土地の豊饒性の持続の永久的自然条件を、攪乱する。したがってまた同時に、それは都市労働者の肉体的健康をも農村労働者の精神生活をも破壊する。しかし、同時にそれは、かの物質代謝の単に自然発生的に生じた状態を破壊することによって、再びそれを、社会的生産の規制的法則として、また人間の十分な発展に適合する形態で、体系的に確立することを強制する。農業でも、製造工業の場合と同様に、生産過程の資本主義的変革は同時に生産者たちの殉難史として現われ、労働手段は労働者の抑圧手段、搾取手段、貧困化手段として現われ、労働過程の社会的な結合は労働者の個人的な活気や自由や独立の組織的圧迫として現われる。農村労働者が比較的広い土地の上に分散しているということは同時に彼らの抵抗力を弱くするが、他方、集中は都市労働者の抵抗力を強くする。都市工業の場合と同様に、現代の農業では労働の生産力の上昇と流動化の増進とは、労働力そのものの荒廃と病弱化とによってあがなわれる。そして、資本主義的農業のどんな進歩も、ただ労働者から略奪するための技術の進歩であるだけでなく、同時に土地から略奪するための技術の進歩でもあり、一定期間の土地の豊度を高めるためのどんな進歩も、同時にこの豊度の不断の源泉を破壊することの進歩である。ある国が、たとえば北アメリカ合衆国のように、その発展の背景としての大工業から出発するならば、その度合いに応じてそれだけこの破壊過程も急速になる。それゆえ、資本主義的生産は、ただ、同時にいっさいの富の源泉を、土地をも労働者をも破壊することによってのみ、社会的生産過程の技術と結合とを発展させるのである。