摘要ノート「資本論」(41)

第13章 機械と大工業

第九節 工場立法(保険・教育条項)
イギリスにおけるその一般化

 工場立法、この、社会がその生産過程の自然発生的な姿に加えた最初の意識的な計画的な反作用、それは、すでに見たように、綿糸や自動機や電信と同様に、大工業の一つの必然的な産物である。
保健条項は、その用語法が資本家のためにその回避を容易にしていることは別としても、まったく貧弱なもので、実際には、壁を白くすることやその他いくつかの清潔維持法や換気や危険な機械にたいする保護などに関する規定に限られている。…資本主義的生産様式にたいしては最も簡単な清潔保健設備でさえも国家の側から強制法によって押しつけられなければならないということ、これほどよくこの生産様式を特徴づけうるものがあろうか?
 それと同時に、工場法のこの部分は、資本主義的生産様式はその本質上ある一定の点を越えてはどんな合理的改良をも許さないものだということを、的確に示している。…(たとえば、作業場として一定の空間が必要という場合)工場法がそのあらゆる強制手段によって比較的小さい作業場の工場への転化を間接に推進し、したがって間接に小資本家の所有権を侵害して大資本家に独占を保障するものだとすれば、作業場でどの労働者にも必要な空間を法律で強制するということは、数千の小資本家を一挙に直接に収奪するものであろう!それは、資本主義的生産様式の根源を、すなわち資本の大小を問わず労働力の「自由な」購入と消費とによる資本の自己増殖を、脅かすものであろう。

工場法の教育条項は全体としては貧弱に見えるとはいえ、それは初等教育を労働の強制条件として宣言した。その成果は、教育および体育を筋肉労働と結ぶつけることの、したがってまた筋肉労働を教育および体育と結びつけることの、可能性をはじめて実証した。・・・工場制度からは、われわれがロバート・オーエンにおいて詳細にその後を追うことができるように、未来の教育の萌芽が出てきたのである。この教育は、一定の年齢から上のすべての子供のために生産的労働を学業および体育と結びつけようとするもので、それは単に社会的生産を増大するための一方法であるだけでなく、全面的に発達した人間を生みだすための唯一の方法でもあるのである。

作業場のなかでのマニュファクチュア的分業について言えることは、社会のなかでの分業についても言える。手工業やマニュファクチュアが社会的生産の一般的な基礎になっているあいだは、一つの専門的な生産部門への生産者の包摂、彼の仕事の元来の多様性の分裂は、一つの必然的な発展契機である。この基礎の上では、それぞれの特殊生産部門は自分に適した技術的姿態を経験的に発見し、だんだんそれを完成してゆき、一定の成熟度に達すれば急速にそれを結晶させる。…ひとたび経験的に適当な形態が得られれば労働用具もまた骨化することは、それがしばしば千年にもわたって世代から世代へと伝えられてゆくことが示しているとおりである。・・・その秘密の世界には、経験的専門的に精通したものでなければはいれなかったということである。人間に対して、彼ら自身の社会的生産過程をおおい隠し、いろいろな自然発生的に分化した生産部門を互いに他にたいして謎にし、またそれぞれの部門の精通者にたいしてさえも謎にしていたヴェールは、大工業によって引き裂かれた。大工業の原理、すなわち、それぞれの生産過程を、それ自体として、さしあたり人間の手のことは少しも顧慮しないで、その構成要素に分解するという原理は、技術学というまったく近代的な科学をつくりだした。社会的生産過程の種々雑多な外観上は無関連な骨化した諸姿態は、自然科学の意識的に計画的な、それぞれ所期の有用効果に応じて体系的に特殊化された応用に分解された。また、技術学は、使用される用具はどんなに多様でも人体の生産的行動はすべて必ずそれによって行なわれるという少数の大きな基本的な運動形態を発見したのであるが、それは、ちょうど、機械がどんなに複雑でも、機械学がそれにだまされて簡単な機械的な力の反復を見誤ったりしないのと同じことである。
近代工業は、一つの生産過程の現在の形態をけっして最終的なものとは見ないし、またそのようなものとしては取り扱わない。それだからこそ、近代工業の技術的基礎は革命的なのであるが、以前のすべての生産様式の技術的基礎は本質的に保守的だったのである。機械や化学的工程やその他の方法によって、近代工業は、生産の技術的基礎とともに労働者の機能や労働過程の社会的結合をも絶えず変革する。したがってまた、それは社会のなかでの分業をも絶えず変革し、大量の資本と労働者の大群とを一つの生産部門から他の生産部門へと絶え間なく投げ出し投げ入れる。したがって、大工業の本性は、労働の転換、機能の流動、労働者の全面的可動性を必然的にする。他面では、大工業は、その資本主義的形態において、古い分業をその骨化した分枝をつけたままで再生産する。われわれはすでに、どのようにこの絶対的矛盾が労働者の生活状態のいっさいの静穏と固定性と確実性をなくしてしまうか、そして彼の手から労働手段とともに絶えず生活手段をもたたき落とそうとし、彼の部分機能とともに彼自身をもよけいなものにしようとするか、を見た。また、どのようにこの矛盾が労働者階級の不断に犠牲と労働力の無際限な乱費と社会的無政府の荒廃とのなかであばれ回るか、を見た。これは消極面である。しかし、いまや労働の転換が、ただ圧倒的な自然法則としてのみ、また、至るところで障害にぶつかる自然法則の盲目的な破壊作用を伴ってのみ、実現されるとすれば、大工業は、いろいろな労働の転換、したがってまた労働者のできるだけの多面性を一般的な社会的生産法則として承認し、この法則の正常な実現に諸関係を適合させることを、大工業の破局そのものをつうじて、生死の問題にする。大工業は、変転する資本の搾取欲求のために予備として保有され自由に利用されるみじめな労働者人口という奇怪事の代わりに、変転する労働要求のための人間の絶対的な利用可能性をもってくることを、すなわち、一つの社会的細部機能の担い手でしかない部分個人の代わりに、いろいろな社会的機能を自分のいろいろな活動様式としてかわるがわる行なうような全体的に発達した個人をもってくることを、一つの生死の問題にする。大工業を基礎として自然発生的に発達してこの変革過程の一つの要因となるものは、工学および農学の学校であり、もう一つの要因は「職業学校」であって、この学校では労働者の子供が技術学やいろいろな生産用具の実際の取り扱いについてある程度の教育を受ける。工場立法は、資本からやっともぎ取った最初の譲歩として、ただ初等教育を工場労働と結びつけるだけだとしても、少しも疑う余地のないことは、労働者階級による不可避な政権獲得は理論的および実際的な技術教育のためにも労働者学校のなかにその席をとってやるであろうということである。また同様に疑う余地のないことは資本主義的生産形態とそれに対応する労働者の経済的諸関係はこのような変革の酵素と古い分業の廃棄というその目的とに真正面から矛盾するということである。とはいえ、一つの歴史的な生産形態の諸矛盾の発展は、その解体と新形成とへの唯一の歴史的な道である。

 工場立法が工場やマニュファクチュアなどでの労働を規制するかぎりでは、このことは当初はただ資本の搾取権への干渉として現われるだけである。ところが、いわゆる家内労働の規制は、いずれも、ただちに父権の、すなわち近代的に解釈すれば親権の、直接的侵害として現われるので、このような規制処置をとることには、思いやりのあるイギリス議会は長いあいだためらっているように見えた。とはいえ、事実の力は、ついに、大工業は古い家族制度とそれに対応する家族労働との経済的基礎とともに古い家族関係そのものをも崩壊させるということを、いやおうなしに認めさせた。子供の権利が宣言されざるをえなくなった。…とはいえ、親の権力の乱用が資本による未熟な労働力の直接間接の搾取をつくりだしたのではなく、むしろ逆に、資本主義的搾取様式が親の権力を、それに対応する経済的基礎を廃棄することによって、一つの乱用にしてきたのである。資本主義体制のなかでの古い家族制度の崩壊がどんなに恐ろしくいとわしく見えようとも、大工業は、家事の領域のかなたにある社会的に組織された生産過程で婦人や男女の少年や子供に決定的な役割を割り当てることによって、家族や両性関係のより高い形態のための新しい経済的基礎をつくりだすのである。言うまでもなく、キリスト教的ゲルマン的家族形態を絶対的と考えることは、ちょうど古代ローマ的、または古代ギリシャ的、または東洋的形態を、しかも相ともに一つの歴史的な発展系列を形成しているこれらの形態の一つを、絶対的と考えることと同様に,愚かなことである。また、同様に明らかなことであるが、男女両性の非常にさまざまな年齢層の諸個人から結合労働人員が構成されているということは、この構成の自然発生的な野蛮な資本主義的形態にあってこそ、すなわちそこでは生産過程のために労働者があるのであって労働者のために生産過程があるのではないという形態にあってこそ、退廃や奴隷状態の害毒の源泉であるとはいえ、それに相応する諸関係のもとでは逆に人間的発展の源泉に一変するにちがいないのである。

工場法を、機械経営の最初の姿である紡績業と織物業とのための例外法から、すべての社会的生産の法律に一般化する必要は、すでに見たように、大工業の歴史的発展工程から生ずる。というのは、大工業の背後では、マニュファクチュアや手工業や家内労働という伝来の姿は完全に変革され、マニュファクチュアは絶えず工場に、手工業は絶えずマニュファクチュアに変わり、そして最後に手工業や家内労働の諸部面は、相対的には驚くばかりの短期間に、資本主義的搾取の凶暴きわまる無法が思いのままに演ぜられる苦難の洞窟になり変わるからである。そこで、二つの事情が最後の決着をつける。第一には、資本は社会的周辺の個々の点だけで国家統制を受けるようになると他の点ではますます無節制に埋め合わせをつけるという絶えず繰り返される経験であり、第二には、競争条件の平等、すなわち労働搾取の制限の平等を求める資本家たち自身の叫びである。

労働者階級の肉体的精神的保護手段として工場法の一般化が不可避になってきたとすれば、それはまた他方では、すでに示唆したように,矮小規模の分散的な労働過程から大きな社会的規模の結合された労働過程への転化を、したがって資本の集積と工場制度の単独支配とを、一般化し促進する。工場立法の一般化は、資本の支配をなお部分的に覆い隠している古風な形態や過渡形態をことごとく破壊して、その代わりに資本のむき出しの支配をもってくる。したがってまた、それはこの支配にたいする直接の闘争をも一般化する。それは、個々の作業場では均等性、合則性、秩序、節約を強要するが、他方では、労働日の制限と規制とが技術に加える非常な刺激によって、全体としての資本主義的生産の無政府と破局、労働の強度、機械と労働者との競争を増大させる。それは、小経営や家内労働の諸部面を破壊するとともに、「過剰人口」の最後の逃げ場を、したがってまた社会機構全体の従来の安全弁をも破壊する。それは、生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる。

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