A 剰余価値(m)/可変資本(v)
=剰余価値/労働力の価値
=剰余労働/必要労働
はじめの二つの定式が価値と価値との比率として表わしているものを、第三の定式は、これらの価値が生産される時間と時間との比率として表わしている。 これらの互いに補足しあう定式は、概念的に厳密なものである。だから、古典派経済学ではこれらの定式が、たとえ事実上完成されていても、意識的には 完成されていないのが見いだされるのである。むしろ、古典派経済学ではわれわれは次のような派生的な諸定式に出合うのである。
B 剰余労働/労働日=剰余価値/生産物価値
=剰余生産物/総生産物
ここでは一つの同じ比率が、順々に、労働時間の形態と、労働時間が具体化されている価値の形態と、この価値がそのなかに存在する生産物の形態とで表現されている。
Bの派生的な定式は、実際には、一労働日またはその価値生産物が資本家と労働者とのあいだに分割される割合を表わしている。だから、もしこれらの定式が資本の自己増殖度の直接的表現として認められるならば、剰余労働または剰余価値が100%に達することはけっしてありえないというまちがった法則が正しいものと認められることになる。剰余労働はつねにただ労働日の一加除部分でありうるだけだから、または、剰余価値はつねにただ価値生産物の一加除部分でありうるだけだから、剰余労働は必ずつねに一労働日よりも小さく、また、剰余価値は必ずつねに価値生産物よりも小さい。…(ところが剰余価値率、すなわち現実の労働搾取度は、100%以上まであがることがありうるのである。)イギリスの農耕労働者は生産物またはその価値の1/4しか受け取らないが、これにたいして資本家(借地農業者)は3/4を受け取る。イギリスの農村労働者の剰余労働は彼の必要労働にたいして3対1の比をなしており、搾取の百分率は300%である。
労働日を不変量として取り扱う学派的方法は、定式Bの適用によって確立された。なぜならば、これらの定式ではつねに剰余労働は与えられた大きさの一労働日と比較されるのだからである。ただ価値生産物の分割だけに注目する場合も、同様である。すでに一つの価値生産物に対象化された一労働日は、つねに、ある与えられた限界をもつ一労働日である。剰余価値と労働力の価値とを価値生産物の諸部分として表わすということ -とにかくそれは資本主義的生産様式そのものから生ずる表現様式であって、その意義はもっとあとで解明されるであろう -、この表わし方は、資本関係の独自な性格、すなわち可変資本と生きている労働力との交換やそれに対応する生産物からの労働者の排除をおおい隠している。それに代わって現われるのが、労働者と資本家とが生産物をそれのいろいろな形成要因の割合に従って分け合う一つの協同関係というまちがった外観なのである。
資本家は、労働力の価値、またはその価値からずれるその価格を支払って、それと引き換えに、生きている労働力そのものの処分権を受け取る。資本家によるこの労働力の利用は二つの期間に分かれる。一方の期間では、労働者はただ自分の労働力の価値に等しい価値を、つまり一つの等価を、生産するだけである。こうして、資本家は、前貸しした労働力の価格の代わりにそれと同じ価格の生産物を手に入れる。それは、ちょうど、彼がこの生産物を市場でできあいで買ったようなものである。これに反して、剰余価値の期間には労働力の利用は資本家のために価値を形成するが、それは資本家にとって価値代償を必要としないものである。彼はこの労働力の流動化を無償で受け取るのである。こういう意味で剰余労働は不払労働と呼ばれることができるのである。だから、資本は,A・スミスが言うような労働にたいする指揮権であるだけでないのである。それは本質的には不払労働にたいする指揮権である。いっさいの剰余価値は、それが後に利潤や利子や地代などというどんな特殊な姿に結晶しようとも、その実態から見れば不払労働時間の物質化である。資本の自己増殖の秘密は、一定量の不払他人労働にたいする資本の処分権になってしまうのである。