摘要ノート「資本論」(3)
資本論第一章 商品
第三節 価値形態または交換価値
商品は、使用価値または商品体の形態をとって・・・この世に生まれてくる。これが商品のありのままの現物形態である。だが、それらが商品であるのは、ただ、それらが二重なものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからである。それゆえ、商品は、ただそれが二重形態、すなわち現物形態と価値形態とをもつかぎりでのみ、商品として現れるのであり、いいかえれば商品という形態をもつのである。
商品体の感覚的に粗雑な対象性とは正反対に商品の価値対象性には一分子も自然素材ははいっていない。それゆえ、ある一つの商品をどんなにいじりまわしてみても、価値物としては相変わらずつかまえようがないのである。とはいえ、諸商品は、ただそれらが人間労働という同じ社会的な単位の諸表現であるかぎりでのみ価値対象性をもっているのだということ、したがって商品の価値対象性は純粋に社会的だということを思い出すならば、価値対象性は商品と商品との社会的な関係のうちにしか現れないということもまたおのずから明らかである。
(ここでは)貨幣形態の生成を示すこと。諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展をその最も単純な最も目だたない姿から光りまばゆい貨幣形態にいたるまで追跡すること、である。
価値と交換価値との内面的なつながり、価値は本質であり、交換価値はその現象形態である。また最も簡単な価値形態の中に含まれる矛盾を原動力として発展し、貨幣形態に至る発展過程を明らかにする
A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
物々交換に現れる価値形態
まず第一に、簡単な価値表現が相対的価値形態と等価形態という二つの要因の統一であること、つぎに第二に、簡単な価値表現の一つの要因である、相対的価値形態についてのべ、第三に、他の要因である等価形態についてのべ、最後第四に、二つの要因の統一としての簡単な価値形態の総体について吟味する。
X量の商品A=Y量の商品B
20エレのリンネル=一着の上着
一 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態
[63]
異種の商品AとB
商品Aは自分の価値を商品Bで表しており、商品Bはこの価値表現の材料として役だっている。
商品Aは、能動的な、商品Bは受動的な役割を演じている。
商品Aの価値は相対的価値として表される。いいかえれば、その商品は相対的価値形態にある。
商品Bは等価物として機能している。いいかえれば、その商品は等価形態にある。
相対的価値形態と等価形態とは、互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機であるが、同時にまた、同じ価値表現の、互いに排除しあう、または対立する両端、すなわち両極である。この両極は、つねに、価値表現によって互いに関係させられる別々の商品のうえに分かれている。
契機…物事が始まったり、変化が生じたりする直接の要素や原因。きっかけ。動機。
特殊性と普遍性は、最低、二個の異なったものがなくては、表現できない。この二個の関係の中に、特殊と普遍とが、現れてくる。一方Aを特殊と把握すれば、他Bの方は、普遍性を担わなくてはならない。ただし、この段階では、商品Aにとっては、個別的関係である。商品Aは、選ぶ方であるから、能動的であり、商品Bは、選ばれる方であるから、受動的である。
「一切の両極的な諸対立一般が相対して置かれた両極相互の相交流する活動によって条件付けられているということ、これら両極の分離と対置とはただこれら両極が組をなして互いに所属し合っているという共属性と両極の合一との内部でだけ成り立つこと、そして逆にそれらの両極の合一はただそれらの分離においてだけ、それらの共属性はただそれらの対置においてだけ、成り立つということ」(エンゲルス「自然弁証法」)
商品Aの相対的価値形態は、なにか別の一商品が商品Aにたいして等価形態にあるということを前提にしているのである。
他方、等価物の役を演ずるこの別の商品は、同時に相対的価値形態にあることはできない。それは自分の価値を表しているのではない。それは、ただ別の商品の価値表現に材料を提供しているだけである。
この相対的価値形態と等価形態との矛盾が価値形態を発展させる原動力となる
二 相対的価値形態
[64]
a 相対的価値形態の内実
20エレのリンネル=一着の上着
一商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのようにひそんでいるかを見つけだすためには、その量的な面からはまったく離れて考察しなければならない。人々はたいていこれとは正反対のことをやるのであって、価値関係のうちに、ただ、二つの商品種類のそれぞれの一定量が互いに等しいとされる割合だけをみているのである。人々は、いろいろな物の大きさはそれらが同じ単位に還元されてからはじめて量的に比較されうるようになるということを見落としている。
リンネル=上着
量的側面を度外視して質的側面について考察する(1)リンネルはいかにしてその価値を表現しているか、(2)リンネルの相対的価値形態の質的内実は何であるか
しかし、質的に等値された二つの商品は、同じ役割を演ずるのではない。ただリンネルの価値だけが表現される。では、どのようにしてか? リンネルが自分の「等価物」または自分と「交換されうるもの」としての上着にたいしてもつ関係によって、である。この関係のなかでは、上着は、価値の存在形態として、価値物として、認められる。なぜならば、ただこのような価値物としてのみ、上着はリンネルと同じだからである。他面では、リンネルそれ自身の価値存在が現れてくる。すなわち独立な表現を与えられる。なぜならば、ただ価値としてのみリンネルは等価物または自分と交換されうるものとしての上着に関係することができるからである。
われわれが、価値としては商品は人間労働の単なる凝固である、というならば、われわれの分析は商品を価値抽象に還元しはするが、しかし、われわれが、商品にその現物形態とは違った等価形態を与えはしない。一商品の他の一商品にたいする価値関係のなかではそうでない。ここでは、その商品の価値性格が、他の一商品にたいするそれ自身の関係によって現れてくる。
裁縫と職布との等値は、裁縫を、事実上、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、還元するのである。
ただ異種の諸商品の等価表現だけが価値形成労働の独自な性格を顕わにするのである。というのは、この等価表現は、異種の諸商品のうちにひそんでいる異種の諸労働を、実際に、それらに共通なものに、人間労働一般に、還元するのだから。しかし、リンネルの価値をなしている労働の独自な性格を表現するだけでは、十分ではない。流動状態にある人間の労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するが、しかし価値ではない。それは凝固状態において、対象的形態において、価値になるのである。リンネルの価値を人間労働の凝固として表現するためには、それをリンネルそのものとは物的に違っていると同時にリンネルと他の商品とに共通な「対象性」として表現しなければならない。
抽象的人間労働は、価値をつくるけれども、価値ではない。リンネルの価値は抽象的人間労働の結晶であり対象化(物体化)である。だから、リンネルの価値を表現するためには、抽象的人間労働の結晶が、独立した、目に見える、手でつかむことのできる、姿を与えられなければならない。価値関係の中ではこのことが行われているのである。
こうして、価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつ。
[注18]
見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるものでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種族の現象形態として認められるのである。
[68]
b 相対的価値形態の量的規定性
その価値が表現されるべき商品は、それぞれ与えられた量の使用対象であって、・・・この与えられた商品量は一定量の人間労働を含んでいる。だから、価値形態は、ただ価値一般だけでなく、量的に規定された価値すなわち価値量をも表現しなければならない。それゆえ、商品Aの商品Bにたいする価値関係、リンネルの上着にたいする価値関係のなかでは、上着という商品種類がただ価値体一般としてリンネルに質的に等置されるだけでなく、一定のリンネル量、たとえば20エレのリンネルに一定量の価値体または等価物、たとえば一着の上着が等置されるのである。
価値量の現実の変動は、価値量の相対的表現または相対的価値の大きさには、明確にも完全にも反映しないのである。一商品の相対的価値はその商品の価値が不変のままでも変動することがありうる。その商品の相対的価値は、その商品の価値が変動しても、不変のままでありうる。そして最後に、その商品の価値量とこの価値量の相対的表現とに同時に生ずる変動が互いに一致する必要は少しもないのである。
三 等価形態
[70]
一商品A(リンネル)は、その価値を異種の一商品B(上着)の使用価値で表わすことによって、商品Bそのものに、一つの独特な価値形態、等価物という価値形態を押しつける。リンネル商品はそれ自身の価値存在を顕わにしてくるのであるが、それは、上着がその物体形態とは違った価値形態をとることなしにリンネル商品に等しいとされることによってである。だから、リンネルは実際にそれ自身の価値存在を、上着が直接にリンネルと交換されうるものだということによって、表現するのである。したがって、一商品の等価形態は、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態である。
どんな商品も、等価物としての自分自身に関係することはできないのであり、したがってまた、自分自身の現物の皮を自分自身の価値の表現にすることはできないのだから、商品は他の商品を等価物としてそれに関係しなければならないのである。
ある一つの商品、たとえばリンネルの相対的価値形態は、リンネルの価値存在を、リンネルの身体やその諸属性とはまったく違ったものとして、たとえば上着に等しいものとして表現するのだから、この表現そのものは、それが或る社会的関係を包蔵していることを暗示している。等価形態については逆である。等価形態は、ある商品体、たとえば上着が、このあるがままの姿の物が、価値を表現しており、したがって生まれながらに価値形態をもっているということ、まさにこのことによって成り立っている。いかにも、このことは、ただリンネル商品が等価物としての上着商品に関係している価値関係のなかで認められているだけである。
[注21]
およそこのような反省規定というものは奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、ただ、他の人々が彼にたいして臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと思うのである。
しかし、ある物の諸属性は、その物の他の諸物にたいする関係から生ずるのではなく、むしろこのような関係のなかではただ実証されるだけなのだから、上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性を、重さがあるとか保温に役立つとかいう属性と同様に、生まれながらにもっているようにみえる。それだからこそ、等価形態の不可解さが感ぜられるのであるが、…最も単純な価値表現がすでに等価形態の謎を解かせるものだということに、気がつかないのである。
等価形態の特色
1. 使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になる。
2. 具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になる。
3. 私的労働がその反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になる。
アリストテレス論
彼は言う、「交換は同等性なしにはありえないが、同等性はまた通約可能性なしにはありえない」と。ところが、ここでにわかに彼は立ちどまって、価値形態のそれ以上の分析をやめてしまう。「しかしこのように種類の違う諸物が通約可能だということ」、すなわち、質的に等しいということは、「本当は不可能なのだ」と。このような等置は、ただ、諸物の真の性質には無縁なものでしかありえない、つまり、ただ「実際上の必要のための応急手段」でしかありえない、というのである。つまり、アリストテレスは、彼のそれからさきの分析がどこで挫折したかを、すなわち、それは価値概念がなかったからだということを、自分でわれわれに語っている。(ニコマコス倫理学)
しかし、商品価値の形態では、すべての労働が同等な人間労働として、したがって同等と認められるものとして表現されているということを、アリストテレスは価値形態そのものから読みとることができなかったのであって、それは、ギリシアの社会が奴隷労働を基礎とし、したがって人間やその労働力の不等性を自然的基礎としていたからである。価値表現の秘密、すなわち人間労働一般であるがゆえの、またそのかぎりでの、すべての労働の同等性および同等な妥当性は、人間の同等性の概念がすでに民衆の先入見としての強固さをもつようになったときに、はじめてその謎を解かれることができるのである。しかし、そのようなことは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがってまた商品所有者としての人間の相互の関係が支配的な社会的関係であるような社会において、はじめて可能なのである。
アリストテレスの天才は、まさに、彼が諸商品の価値表現のうちに一つの同等性関係を発見しているということのうちに、光り輝いている。ただ、彼の生きていた社会の歴史的な限界が、ではこの同等性関係は「ほんとうは」どこにあるのか、を彼が見つけだすことを妨げているだけである。
四 単純な価値形態の全体
[75]]
商品Aの価値は、質的には、商品Aとの商品Bの直接的交換可能性によって表現される。量的には、商品Aの与えられた量との商品Bの一定量の交換可能性によって表現される。言いかえれば、一商品の価値は、それが「交換価値」として表示されることよって独立に表現されている。この章のはじめに、普通の言い方で、商品は使用価値であるとともに交換価値である、と言ったが、これは厳密に言えばまちがいだった。商品は、使用価値または使用対象であるとともに「価値」なのである。商品は、その価値が商品の現物形態とは違った独特な現象形態、すなわち交換価値という現象形態をもつとき、そのあるがままのこのような二重物として現れるのであって、商品は、孤立的に考察されたのでは、この交換価値という形態をけっしてもたないのであり、つねにただ第二の異種の一商品にたいする価値関係または交換関係のなかでのみこの形態をもつ。
商品の価値形態または価値表現は商品価値の本性から出てくるのであって、逆に価値や価値量がそれらの交換価値としての表現様式から出てくるのでない。…重商主義者たちは価値表現の質的な面に、したがって貨幣をその完成形態とする商品の等価形態に、重きをおいているが、これとは反対に、どんな価格ででも自分の商品を売りさばかなければならない近代の自由貿易行商人たちは相対的価値形態の量的な面に重きをおいている。したがって、彼らにとっては、商品の価値も価値量も交換関係による表現のなかよりほかにないのであり、したがってまた、ただ日々の物価表のなかにあるだけなのである。
商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現のいっそう詳しい考察は、この価値関係のなかでは商品Aの現物形態はただ使用価値の姿として、商品Bの現物形態または価値の姿としてのみ認められているということを示した。つまり、商品のうちに包み込まれている使用価値と価値との内的な対立は、一つの外的な対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表されるのであるが、この関係のなかでは、自分の価値が表現されるべき一方の商品は直接にはただ使用価値として認められるのであり、これにたいして、それで価値が表現される他方の商品は直接にはただ交換価値として認められるのである。つまり、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのである。
労働生産物は、どんな社会状態のなかでも使用対象であるが、しかし労働生産物を商品にするには、ただ、一つの歴史的に規定された発展段階、すなわち使用物の生産に支出された労働をその物の「対象的」な属性として、すなわちその物の価値として表わすような発展段階だけである。それゆえ、商品の単純な価値形態は同時に労働生産物の単純な商品形態だということになり、したがってまた商品形態の発展は価値形態の発展に一致するということになるのである。
単純な価値形態、すなわち一連の諸変態を経てはじめて価格形態にまで成熟するこの萌芽形態の不十分さは、一見して明らかである。
ある一つの商品Bでの表現は、商品Aの価値をただ商品A自身の使用価値から区別するだけであり、したがってまた、商品Aをそれ自身とは違ったなんらかの一つの商品種類にたいする交換関係のなかにおくだけであって、ほかのすべての商品との商品Aの質的な同等性と量的な割合とを表すものではない。一商品の単純な相対的価値形態には、他の一商品の個別的な等価形態が対応する。とはいえ、個別的な価値形態はおのずからもっと完全な形態に移行する。…商品Aの可能な価値表現の数は、ただ商品Aとは違った商品種類の数によって制限されているだけである。それゆえ、商品Aの個別的な価値表現は、商品Aのいろいろな単純な価値表現のいくらでも引き伸ばせる列に転化する。