摘要ノート「資本論」(2)
資本論第一章 商品
第二節 商品に表される労働の二重性
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いろいろに違った使用価値または商品体の総体のうちには、同様に多種多様な、属や種や科や亜種や変種を異にする有用労働の総体ー社会的分業が現れている。社会的分業は商品生産の存在条件である。といっても、商品生産が逆に社会的分業の存在条件であるのではない。
いろいろな使用価値は、それらのうちに質的に違った有用労働が含まれていなければ、商品として相対することはできない。社会の生産物が一般的に商品という形態をとっている社会では、すなわち商品生産者の社会では、独立生産者の私事として互いに独立に営まれるいろいろな有用労働のこのような質的な相違が、一つの多肢的体制に、すなわち社会的分業に、発展するのである。
(有用労働としての)、上着とそれを生産する労働との関係も、裁縫が特殊な職業になり社会的分業の独立な分肢になるということによっては、それ自体としては少しも変化してはいない。人間は衣服を着ることの必要に強制されたところでは、だれかが仕立屋になるよりも何千年もまえから裁縫をやってきた。しかし上着やリンネルなど、すべて天然には存在しない素材的富の要素の存在は、つねに、特殊な自然素材を特殊な人間欲望に適合させる特殊な合目的的生産活動によって媒介されなければならなかった。それゆえ、労働は、使用価値の生成者としては、有用労働としては、人間の、すべての社会形態から独立した存在条件であり、人間と自然とのあいだの物質代謝を、従って人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。
簡単に言えば、いろいろな商品体は、二つの要素の結合物、自然素材と労働との結合物である。だから、労働は、それによって生産される使用価値の、素材的富の、ただひとつの源泉なのではない。労働は素材的富の父であり、土地はその母である。
資本主義社会では、労働需要の方向の変化に従って、人間労働の一定の部分が、あるときは裁縫の形態で、あるときは織布の形態で供給される。このような労働の形態変換は、摩擦なしにはすまないかもしれないが、ともかくそれは行われなければならない。
「一定の割合での社会的労働の分割の必要は、けっして社会的生産の特定の形態によって廃棄されうるものではなくて、ただその現象様式を変えうるだけだということは自明です。自然法則はけっして廃棄されうるものではありません。歴史的に違ういろいろな状態のもとで変化しうるのは、ただ、かの諸法則が貫かれる形態だけです。そして、社会的労働の関連が個人的労働生産物の私的交換として実現される社会状態のもとでこのような一定の割合での労働の分割が実現される形態、これがまさにこれらの生産物の交換価値なのです。…ブルジョア社会の核心は、生産の意識的な社会的な規制が行われない、ということにあるのです。理性的なものや自然必然的なものは、ただ、盲目的に作用する平均として実現されるだけです。」
より複雑な労働は、ただ、単純な労働が数乗されたもの、またはむしろ数倍されたものとみなされるだけであり、したがって、より小さい量の複雑労働がより大き量の単純労働に等しいということになる。このような換算が絶えずおこなわれているということは、経験が示すところである。ある商品がどんなに複雑な労働の生産物であっても、その価値は、その商品を単純労働の生産物に等置するのであり、したがってそれ自身ただ単純労働の一定量を表わしているにすぎないのである。いろいろな労働種類がその度量単位としての単純労働に換算されるいろいろな割合は、ひとつの社会的過程によって生産者の背後で確定され、したがって生産者たちにとっては慣習によって与えられたもののように思われる。
より大きい量の使用価値は、それ自体として、より大きい素材的富をなしている。しかし、素材的富の量の増大にその価値量の同時的低下が対応することがありうる。このような相反する運動は、労働の二面的な性格から生ずる。 生産力は、もちろん、つねにようような具体的な労働の生産力であって、じっさい、ただ与えられた時間内の合目的的生産活動の作用程度を規定するだけである。それゆえ、有用労働は、その生産力の上昇又は低下に比例して、より豊富な、またはより貧弱な生産物源泉になるのである。これに反して、生産力の変動は、価値に表わされている労働それ自体には少しも影響しない。生産力は労働の具体的な有用形態に属するのだから、労働の具体的な有用形態が捨象されてしまえば、もちろん生産力はもはや労働に影響することはできないのである。それゆえ 同じ労働は同じ時間には、生産力がどんなに変動しようとも、つねに同じ価値量に結果するのである。しかし、その労働は、同じ時間に違った量の使用価値を、すなわち生産力が上がればより多くの使用価値を、生産力が下がればより少ない使用価値を、与える。それゆえ、労働の豊度を増大させ、したがって労働の与える使用価値の量を増大させるような生産力の変動は、それが使用価値総量の生産に必要な労働時間の総計を短縮する場合には、この増大した使用価値総量の価値量を減少させるのである。
すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値を形成するのである。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間の労働力の支出であって、この具体的有用労働という属性においてそれは使用価値を生産するのである。
このような、労働一般という抽象は、たんに種々の労働の具体的な総体の精神的な結果であるだけではない。特定の労働にたいする無関心は個々人がたやすくひとつの労働から他の労働に移り彼らにとっては労働の特定の種類は偶然であり、したがってどうでもよいものになるという社会形態に対応する。労働はここではたんに範疇としてだけではなく現実にも富一般の創造のための手段になっており、職分として個人とひとつの特殊性において合生したものではなくなっている。だから、そこで、「労働」、「労働一般」、単なる労働、という範疇の抽象が、近代的経済学の出発点が、はじめて実際に真実になるのである。だから、近代的経済学が先頭に立てている最も簡単な抽象、そしてすべての高い形態にあてはまる非常に古い関係を表している最も簡単な抽象は、それにもかかわらず、最も近代的な社会の範疇としてはじめて、実際に真実にこの抽象において現れるのである。
この労働の例が適切に示しているように、最も抽象的な範疇でさえも、それが―まさにその抽象性のゆえに―どの時代にも妥当するにもかかわらず、このような抽象の規定性そのものにあっては、やはり歴史的諸関係の産物なのであって、ただこの歴史的諸関係だけにたいして、またただこの諸関係のなかだけで、十分な妥当性をもっているのである。「「経済学批判」への序説」
この社会の私的労働は、二つの社会的性格をもっている。第一に、具体的有用労働として他人のための使用価値を作るという社会的性格を持ち、第二に、質の等しい抽象的人間労働として価値をつくるという社会的性格をもっている。第一の社会的性格は他の社会の労働にも共通な社会的性格であるが、第二の社会的性格は商品生産社会の私的労働だけがもつ特殊的な社会的性格である。