摘要ノート「資本論」(1)

フランス語版序文および後記

[31] 私が用いてきた、そして経済上の問題にはまだ適用されたことのない分析の方法は、はじめの諸章を読むことをかなり困難にしています。
「学問には平坦な王道はありません。そして、学問の険しい坂道をよじのぼる労苦をいとわないものだけに、その明るい頂上にたどりつく見込みがあるのです。」

資本論第一章 商品

第一節 商品の二つの要因
  使用価値と価値(価値実体 価値量)

[49] 資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。
それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる。

おのおのの有用物は、二重の観点から、すなわち質と量の面とから、考察される。このようなものは、それぞれ、多くの属性の全体であり、したがって、いろいろな面から見て有用でありうる。これらのいろいろな面と、したがってまた物のさまざまな使用方法を発見することは、歴史的行為である。有用な物の量を計るための社会的な尺度を見出すことも、そうである。いろいろな商品尺度の相違は、あるものは計られる対象の性質の相違から生じ、あるものは慣習から生じる。

[50] ある一つの物の有用性は、その物を使用価値にする。使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。使用価値は、富の社会的形態がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。われわれが考察しようとする社会形態にあっては、それは同時に素材的な担い手になっているー交換価値の。

交換価値は、まず第一に、ある一種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち割合として現れる。それは、時と所によって絶えず変動する関係である。それゆえ、交換価値は偶然的なもの、純粋に相対的なものであるように見え、したがって、商品に内的な、内在的な交換価値というものは、一つの形容矛盾であるようにみえる。

[51] (ある一つの商品は、いろいろに違った割合の他の商品と交換される。だからある一つの商品は) さまざまな交換価値をもっているのであって、たった一つの交換価値をもっているのではない。
第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの同じものを表している。
第二に、およそ交換価値は、ただ、それとは区別される或る実質の表現様式、「現象形態」でしかありえない。ということになる。
価値というのは、経済学が苦心惨憺してはじめて見つけ出したというようなものではない。昔から、市場にやってくる売り手や買い手は、自分の商品についても他人の商品についても、それぞれの商品が社会的に認められているはずの、ある大きさの「ねうち」をもっていると考えていて、ある商品の価格(売り値)がそれの「ねうち」よりも高くなれば、その商品は有利になっていると感じ、それよりも低くなっていれば不利になっていると感じる。そしてこのような判断にもとづいて、自分がなにをどれだけ生産するか、市場に出すかを決めていた。このような「ねうち」を、売り手や買い手たちも、またのちに古典派経済学者たちも「価値(value)」と呼んだのである。経済学が発見しなければならなかったのは、この「価値」とはいったいなにによつて決まるのだろうか、そもそもそれは商品のもっているどのような性質をさしているのだろうか、ということであった。これについてA・スミスなどの古典派経済学者は、価値は労働の量だという「労働価値説」を唱えたのであり、マルクスはこの労働価値説をさらに厳密に発展させたのであつた。」
諸商品の諸交換価値は、それらがあるいはより多くあるいはより少なく表わしている一つの共通なものに還元される。

使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、いろいろに違った質であるが、交換価値としては、諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり、したがって一分子の使用価値を含んではいないのである。(諸商品の交換関係を明白に特徴づけているものは、まさに諸商品の使用価値の捨象なのである)

そこで商品体の使用価値を見ないことにすれば、商品体に残るものは、もはやただ労働生産物という属性だけである。・・労働生産物の使用価値を捨象するならば、それを使用価値にしている物体的な諸成分や諸形態をも捨象することになる。・・それはまた、労働生産物の有用性といっしょに、労働生産物に表わされている労働の有用性も消え去り、したがってまたこれらの労働のいろいろな具体的形態も消え去り、これらの労働はもはや互いに区別されることなく、すべてことごとく同じ人間労働に、抽象的人間労働に、還元されているのである。

これらの物が表わしているのは、もはやただ、その生産に人間労働力が支出され、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなそれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値――商品価値なのである。
私は「概念」からは、したがって「価値概念」からも、出発してはいないし、したがってまた私にはこれを「分類する」必要もまったくない。私が出発点とするものは、いまの社会で労働生産物がとる最も簡単な社会的形態であり、そしてこれが「商品」である。それを私は分析するのであり、しかもまず第一にそれが現われる形態においてである。さてここで私は、それが一方ではその現物形態では使用物、別な言い方では使用価値であり、他方では交換価値の担い手であり、この観点からはそれ自身「交換価値」であることを発見する。後者をさらに分析してみると、交換価値は商品にふくまれている価値の「現象形態」、独立した表示の仕方であることが私にわかり、ついで私は後者の分析にとりかかる。それだから、はっきりこういっている。「この章のはじめに、普通の言い方で、商品は使用価値であるとともに交換価値である、といったが、これは厳密にいえば間違いだった。商品は、使用価値または使用対象であるとともに「価値」なのである。商品はその価値が商品の現物形態とは違った独特の現象形態、すなわち交換価値という現象形態をもつとき、そのあるがままのこのような二重物として現われるのであって」 うんぬん。だから、私は抽象物である「価値そのもの」がそれへ分裂する対立物としての使用価値と交換価値とに、価値そのものを分けてはいない。そうではなく、労働生産物の具体的な社会的姿態である「商品」が、一方では使用価値であり、他方では「価値」―交換価値ではなく―なのである。なぜならば、たんなる現象形態は、商品の本来の内容ではないからである。「アードルフ・ヴァーグナー著 「経済学教科書」への評注」

抽象的なものと具体的なもの

抽象とは、たがいに内面的必然的につながり合っている諸関係のなかから、ある関係をぬきだすことである。一つの関係を抜き出すことは、他の諸関係を度外視することである。他の諸関係を度外視することは、抽象である。抽象には段階がある。たがいに内面的必然的につながり合っている諸関係のなかから、一つの関係だけを捨象する場合には、抽象は最も低い段階にある。二つ三つとしだいに多くの関係を捨象するにつれて、抽象はしだいに高い段階に進む。そして最後に、一つの関係だけを残して他の諸関係をすべて捨象すると、抽象は最も高い段階にある。この一つの関係を最も抽象的な関係という。こうして抽象の段階をつぎつぎに高めてゆくことを抽象化という。

価値は交換価値を離れては存在しない。

価値が交換価値を離れては存在しないということは、価値は、交換価値のなかにのみ、その基礎としてのみ、その本質としてのみ、存在するということである。それは、すべての私的労働の生産物がたがいに全面的に交換されあっている社会でのみ、労働生産物は使用価値のほかに価値という性格をもつということである。言いかえると、商品の価値という性格は、すべての私的労働の生産物の全面的な交換が行なわれていることを前提するということである。
ある使用価値または財貨が価値をもつのは、ただ抽象的人間労働がそれに対象化または物質化されているからでしかない。では、それの価値の大きさはどのようにして計られるか? それに含まれている「価値を形成する実体」の量、すなわち労働の量によってである。労働の量そのものは、労働の継続時間で計られる。

[53] 商品世界の諸価値となって現われる社会の総労働力は、無数の個別的労働力からなっているのではあるが、ここでは一つの同じ人間労働力とみなされるのである。これらの個別的労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力という性格をもち、このような社会的平均労働力として作用し、したがって一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間だけを必要するかぎり、他の労働力と同じ人間労働力なのである。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的に正常な生産条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値を生産するために必要な労働時間である。だから、ある使用価値の価値量を規定するものは、ただ、社会的に必要な労働の量、すなわち、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間だけである。

それゆえ、もしもある商品の生産に必要な労働時間が不変であるならば、その商品の価値の大きさも不変であろう。しかし、この労働時間は、労働の生産力に変動があれば、そのつど変動する。労働の生産力は、多種多様な事情によって規定されており、なかでも特に労働者の熟練の平均度、科学とその技術的応用可能性との発展段階、生産過程の社会的結合、生産手段の規模と作用能力とによって、さらにまた自然関係によって規定されている。

自分の生産物によって自分自身の欲望を満足させる人は、使用価値はつくるが、商品はつくらない。商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他人のための使用価値、社会的使用価値を生産しなければならない。…(また)商品になるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他人の手に交換によって移されなければならない。
目次 next