摘要ノート「資本論Ⅱ」(38)

第三編 社会的総資本の再生産と流通

第二十章 単純再生産

第九節 アダム・スミス、シュトルヒ、ラムジへの回顧

社会的生産物の総価値は、9000=6000c+1500v+1500m である。言い換えれば、6000 は生産手段の価値を再生産し、3000 は消費手段の価値を再生産する。したがって、社会的収入の価値 (v+m) は、総生産物価値の三分の一にしかならない。そして、労働者も資本家も含めての消費者の全体は、、ただこの三分の一の価値額だけ商品を、生産物を、社会的総生産物のうちから取り出して自分の消費財源に合体させることができるのである。これにたいして、6000=生産物価値の三分の二は、現物で補填されなければならない不変資本の価値である。したがって、これだけの額の生産手段が再び生産財源に合体されなければならないのである。ところが、アダム・スミスはあのようなとりとめのない説(ドグマ)をたてているのであって、彼のこの説は、今日に至るまで、社会的生産物価値の全体が収入すなわち労賃・プラス・剰余価値に、または彼の言葉で言えば、労賃・プラス・利潤(利子)・プラス・地代に分解する、というすでに述べた形で信奉されているだけでなく、もっと通俗的な形でも、すなわち、消費者は結局は全生産物価値を生産者に支払わなければならないという形でも、信奉されているのである。これは、今日に至るまで、いわゆる経済学の最も広く承認された決まり文句またはむしろ永久的真理の一つなのである。

年間生産物価値の全体が結局は消費者によって支払われなければならないという文句が正しいのは、ただ、消費者のうちに個人的消費者と生産的消費者という二つのまったく違った種類を含める場合だけであろう。ところが、生産物の一部分は生産的に消費されなければならないということの意味は、それは資本として機能しなければならず収入として消費されることのできないということ以外のなにごとでもないのである。われわれが総生産物の価値=9000 を6000c+1500v+1500m に分けて、3000(v+m)をただ収入という性質だけから見るならば、逆に、可変資本は消えてしまって資本は-社会的に見れば-不変資本だけから成っているかのように見える。なぜならば、はじめに、1500vとして現われたものは、社会的収入の一部分に、労賃すなわち労働者階級の収入に、分解して、それとともにその資本性格は消えてしまうからである。…ラムジによれば、社会的に見れば資本はただ固定資本だけから成っているのであるが、しかし彼が固定資本といっているのは不変資本のことであり、生産手段として存在する価値量のことであって、この生産手段は労働手段でも原料や半製品や補助材料でもかまわないのである。彼は可変資本を流動資本と呼んでいる。…ここでもまた、アダムスミスがひき起こした害毒が見られる。というのは、不変資本と可変資本との区別が彼の場合には固定資本と流動資本との区別とごちゃまぜになっているからである。ラムジの不変資本は労働手段から成っており、彼の流動資本は生活手段から成っている。どちらも、与えられた価値をもった商品である。剰余価値を生産することができないことは、どちらも同じことである。

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