摘要ノート「資本論Ⅱ」(39)

第三編 社会的総資本の再生産と流通

第二十章 単純再生産

第十節 資本と収入 可変資本と労賃

Ⅰ.4000c+1000v+1000m(あとのほうの 2000 は消費手段 Ⅱc に実現される)=6000
Ⅱ.2000c(Ⅰ(v+m)との交換によって再生産される)+5000v+500m=3000
価値総額=9000

一年間に新たに生産された価値は、v と m だけに含まれている。だから、この年の価値生産物の総額は、v+m の総額に等しく、2000Ⅰ(v+m)+1000Ⅱ(v+m)=3000 である。この年の生産物価値のうちの残りの全価値部分は、ただ、前からあってこの年の生産で消費された生産手段の価値から移された価値でしかない。3000 という価値のほかには、この年の年間労働は価値としてはなにも生産していない。これがこの労働の年間価値生産物の全部なのである。
2000Ⅰ(v+m)は、部門Ⅱのためにその 2000Ⅱc を生産手段の現物形態で補填する。だから、年間労働のうち部門Ⅰで支出された三分の二は、不変資本Ⅱを、その全価値をもその現物形態をも、新たに生産したわけである。つまり、社会的に見れば、一年間に支出された労働の三分の二は、部門Ⅱに適した現物形態に実現されている新たな不変資本価値をつくりだしたのである。だから、社会的年間労働の過半部分は、消費手段の生産に支出された不変資本価値を補填するための新たな不変資本(生産手段として存在する資本価値)の生産に支出されたのである。

一部の経済学者たちは理論的な困難を、すなわち現実の関連の理解を、今はやりの見解によってかたづけてしまおうとするのであるが、その見解- 一方にとって資本であるものは他方にとっては収入であり、またその逆である、という見解-は、部分的には正しいとしても、もしそれが一般的に提起されるならば、たちまちまったくまちがいになる。(つまり、それは、年間再生産に伴って行なわれる全転換過程の完全な誤解を含んでおり、したがってまた部分的には正しいことの事実的基礎に関する誤解を含んでいる)

 そこでわれわれは、この見解の部分的な正しさの基礎をなしている事実的諸関係をまとめてみることにしよう。
(1) 可変資本は資本家の手のなかでは資本として機能し、賃金労働者の手のなかでは収入として機能する。可変資本は最初まず貨幣資本として資本家の手のなかにある。それが貨幣資本として機能するのは、資本家がそれで労働力を買うからである。それが資本家の手のなかに貨幣形態のままであるかぎり、それは、貨幣形態で存在する与えられた価値以外のなにものでもなく、したがって一つの不変量であってけっして可変量ではない。それは、ただ潜勢的に可変資本であるだけである-まさにそれの労働力への転換可能性によって。それがはじめて現実の可変資本になるのは、その貨幣形態を脱ぎ捨ててからのことであり、それが労働力に転換されてこの労働力が資本主義的過程で生産資本の成分として機能するようになってからのことである。
はじめに資本家のために可変資本の貨幣形態として機能した貨幣は、いま労働者の手のなかでは、彼が生活手段に転換する彼の労賃の貨幣形態として、すなわち彼が自分の労働力を絶えず繰り返し売ることによって得る収入の貨幣形態として、機能する。われわれがここで見るのは、ただ、買い手-資本家-の貨幣が彼の手から売り手-労働者-のてに移って行くという簡単な事実でしかない。可変資本が、資本家にとっては資本として、労働者にとっては収入として二重に機能するのではなく、同じ貨幣が、はじめは資本家の手のなかに彼の可変資本の貨幣形態として、したがって潜勢的な可変資本として存在し、つぎに資本家がそれを労働力に転換すれば、労働者の手のなかで、売られた労働力の等価として役だつのである。しかし、同じ貨幣が売り手の手のなかでは買い手の手にあるときとは違った用途に役だつということは、どの商品売買にもつきものの現象である。

彼らは次のように言う。
同じ貨幣がここでは二つの資本を実現する。買い手ー資本家ーは自分の貨幣資本を生きている労働力に転換し、この労働力を自分の生産資本に合体させる。他方、売り手-労働者-は自分の商品-労働力-を貨幣に転換してこの貨幣を収入として支出し、まさにそうすることによって自分の労働力を絶えず繰り返して売ることができるようになり、またそのようにして自分の労働力を維持することができるようになる。だから、彼の労働力は、それ自体、商品形態にある彼の資本なのであって、そこから絶えず彼の収入がわいてくるのだ、と。じっさい、労働力は彼の財産(絶えず更新され再生産される財産)ではあるが、彼の資本ではない。労働力は、彼が絶えず売ることのできる、また彼が生きて行くためには絶えず売らなければならない唯一の商品であり、そして、ただその買い手すなわち資本家の手のなかではじめて資本(可変資本)として働く商品である。自分の労働力を、すなわち自分自身を、絶えず繰り返し第三者に売ることをある人が絶えず強制されているということは、あの経済学者たちのいうところでは、彼が資本家だということを証明するのであるが、そのわけは、彼がいつでも売るべき[商品](自分自身)をもっているからなのである。この意味でならば、奴隷もまた資本家である。

(2) こうして、1000Ⅰv+1000Ⅰm対 2000Ⅱc の転換では、一方にとって不変資本であるもの(2000Ⅱc)が、他方にとっては可変資本と剰余価値、つまり一般に収入になるのであり、また、一方にとっては可変資本と剰余価値(2000Ⅰ(v+m))、つまり一般に収入であるものが、他方にとっては不変資本になるのである。
収入に分解するのは、可変資本 v ではなくて、労賃である。労賃として受け取られた貨幣が労働者階級の手のなかで経験するさまざまな転換は、けっして可変資本の転換ではなくて、貨幣に転化したこの階級の労働力の価値の転換である。労賃が収入として支出されるということによって、一方では 1000Ⅱc が、またこの回り道を通って 1000Ⅰv が、またおなじく500Ⅱv が、したがって不変資本も可変資本も(可変資本の場合には一部分は直接の、一部分は間接の還流によって)再び貨幣資本として回復される、ということは、年間生産物の転換における一つの重要な事実なのである。

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