個別資本、というのは社会的資本のそれぞれ独立に機能する断片であり、それ自身の生命を与えられている断片であるが、このような個別資本の生産物は、それぞれなんらかの現物形態をもっている。たった一つの条件は、その生産物が現実にある使用形態、ある使用価値をもっていて、この使用価値がその生産物を商品世界の流通能力ある一環にしているということである。この生産物は、自分が生産物として出てくるその同じ生産過程に再び生産手段としてはいることができるかどうか、つまり、その生産物価値のうち不変資本部分を表わしている部分は、実際に再び不変資本として機能できるような現物形態をもっているかどうかというようなことは、まったくどうでもよいのであり、偶然なのである。もしそのような現物形態をもっていなければ、生産物価値のこの部分は、売買を通じて再びその物的生産要素の形態に転化させられ、この転化によって不変資本がその機能能力ある現物形態で再生産されるのである。
社会的総資本の生産物の場合にはそうではない。再生産のすべての物的要素がそれらの現物形態のままでこの生産物そのものの諸部分をなしていなけばならない。消費された不変資本部分が総生産によって補填されることができるのは、ただ、再現する不変資本部分の総体が、現実に不変資本として機能することのできる新たな生産手段の現物形態で生産物のうちに再現するかぎりのことである。それゆえ、単純再生産を前提すれば、生産物のうち生産手段から成っている部分の価値は、社会的資本の不変価値部分に等しくなければならないのである。
さらに、個別的に見れば、資本家が新たにつけ加えられる労働によって彼の生産物価値のうちに生産するのは、ただ彼の可変資本+剰余価値だけであって、不変価値部分のほうは、新たにつけ加えられる労働の具体的性格によって生産物に移されるのである。
社会的に見れば、社会的労働日のうち生産手段を生産する部分、したがってまた生産手段に新価値をつけ加えるとともにその生産に消費された生産手段の価値をそれに移す部分は、新たな不変資本のほかにはなにも生産しない。すなわち、古い生産手段の形態でⅠとⅡとで消費された不変資本を補填するべき新たな不変資本のほかにはなにも生産しないのである。この部分は、ただ、生産的消費にはいって行くべき生産物だけを生産する。だから、この生産物の全価値は、ただ、不変資本としてまた新たに機能することのできる価値、現物形態での不変資本だけを買いもどすことのできる価値、したがって、社会的に見れば、可変資本にも剰余価値にも分解しない価値でしかないのである。-他方、社会的労働日のうち消費手段を生産する部分は、社会的補填資本のどの部分をも生産しない。この部分は、ただⅠとⅡとの可変資本価値と剰余価値とを実現するべき現物形態をもつ生産物を生産するだけである。