摘要ノート「資本論Ⅱ」(36)

第三編 社会的総資本の再生産と流通

第二十章 単純再生産

第七節 両部門の可変資本と剰余価値

要するに、一年間に生産される消費手段の総価値は、一年間に再生産される可変資本価値Ⅱ+新たに生産される剰余価値Ⅱ(すなわちⅡで一年間に生産される価値)+一年間に再生産される可変資本価値Ⅰおよび新たに生産される剰余価値Ⅰ(すなわちⅠで一年間に生産される価値)に等しい。つまり、単純再生産という前提のもとでは、一年間に生産される消費手段の総価値は、一年間の価値生産物に、すなわち社会的労働によって一年間に生産される全価値に、等しいのであり、またそうであるよりほかはない。というのは、単純再生産ではこの全価値が消費されるのだからである。社会的総労働日は二つの部分に分かれる。(1)必要労働。これは一年間に、1500v という価値をつくりだす。(2)剰余労働。これは一年間に、1500m という追加価値または剰余価値をつくりだす。これらの価値の合計=3000 は、一年間に生産される消費手段の価値 3000 に等しい。だから、一年間に生産される消費手段の総価値は、社会的総労働日が一年間に生産する総価値に等しく、社会的可変資本価値+社会的剰余価値に等しく、一年間の新生産物の全体に等しいのである。
 しかし、この二つの価値量が一致するとはいえ、それだからといって、けっして商品Ⅱすなわち消費手段の全価値が社会的生産のこの部門で生産されたのではない。二つの価値量が一致するのは、Ⅱで再現する不変資本価値が、Ⅰで新たに生産される価値(可変資本価値+剰余価値)に等しいからである。それだから、Ⅰ(v+m) は、Ⅱの生産物のうちその生産者(部門Ⅱのなかの)にとって不変資本価値を表わす部分を買うことができるのである。それだから、Ⅱの資本家たちにとっては彼らの生産物の価値は c+v+m に分かれるのに社会的に見ればこの生産物の価値が v+m にわかれるのはなぜであるか、がわかるのである。すなわち、そうであるのは、ただ、Ⅱcがこの場合には Ⅰ(v+m)に等しく、社会的生産物のこの両成分がそれらの交換によってそれらの現物形態を互いに取り替え、したがってこの転換のあとではⅡcは再び生産手段として存在するが Ⅰ(v+m) は反対に消費手段として存在するからにすぎないのである。そして、まさにこの事情こそは、アダム・スミスが年間生産物の価値は v+m に分解すると主張するきっかけになったのである。そう言えるのは、(1)ただ年間生産物のうち消費手段から成っている部分についてだけであって、(2)この部分の総価値がⅡで生産され、したがってⅡの生産物価値はⅡで前貸しされる可変資本価値+Ⅱで生産された剰余価値に等しい、という意味でそう言えるのではないのである。そうではなく、ただ、Ⅱ(c+v+m)=Ⅱ(v+m)+Ⅰ(v+m)という意味で、またはⅡc=Ⅰ(v+m)だから、そういえるだけなのである。

before 目次 next