Ⅱ(v+m)は、消費財の現物形態で存在するのだから、また、労働力の支払のために労働者に前貸しされる可変資本は、労働者によってだいたいにおいて消費手段に支出されなければならないのだから、さらにまた、商品の価値部分 m は、単純再生産という前提のもとでは、事実上収入として消費手段に支出されるのだから、一見して明らかなように、労働者Ⅱは資本家Ⅱから受け取った労賃で彼ら自身の生産物の一部分-労賃として受け取った貨幣価値の大きさに相当する部分-を買いもどすのである。これによって資本家階級Ⅱは、労働力の支払に前貸しした自分の貨幣資本を貨幣形態に再転化させる。
恐慌は支払能力のある消費または支払能力ある消費者の不足から生ずる、と言うことは、まったくの同義反復である。受救貧民や「どろぼう」の消費を別とすれば、資本主義制度は、支払う消費でない消費は知らないのである。商品が売れないということは、商品のために支払能力ある消費者が見つからなかった(商品を買うのが結局は生産的消費のためであろうと、そうではなく個人的消費のためであろうと)ということにほかならないのである。しかし、もしだれかが、労働者階級はそれ自身の生産物のあまりにも少なすぎる部分を受け取っているのだから、労働者階級がもっと大きな分けまえを受け取り、したがってその労賃が高くなれば、この害悪は除かれるだろう、と言うことによって、この同義反復にもっと深い根拠があるかのような外観を与えようとするならば、それにたいしてはただこう言えばよい、-まさに、労賃が一般的に上がって、労働者階級が年間生産物中の消費用部分のより大きな分けまえを現実に受け取るという時期こそは、いつでも恐慌を準備するのだ、と。このような時期は-この健全で「単純な」常識の騎士たちの観点からは-逆に恐慌を遠ざけるはずなのに。つまり、資本主義的生産は善意や悪意にはかかわりない諸条件を含んでいて、このような条件があの労働者階級の相対的な繁栄をただ一時的にしか、しかもつねにただ恐慌の前ぶれとしてしか許さないのであるかのように見えるのである。