個別資本の回転を考察したときには、貨幣資本は二つの側面から明らかにされた。
第一に、貨幣資本は、どの個別資本が舞台に現われて資本としてその過程を開始するときにもその形態をなしている。それだから、貨幣資本は、全過程に衝撃を加える起動力として現われるのである。
第二に、回転期間の長さが違えば、またその二つの構成部分-労働期間と流通期間と-の割合が違えば、前貸資本価値のうちの絶えず貨幣形態で前貸しされ更新されなければならない構成部分と、それによって動かされる生産資本すなわち連続的な生産規模との割合も違ってくる。しかし、この割合がどうであろうと、どんな事情のもとでも、過程進行中の資本価値のうち絶えず生産資本として機能することのできる部分は、前貸資本価値のうち絶えず生産資本と並んで貨幣形態で存在しなければならない部分によって、制限されている。
第一の点について。
商品生産は商品流通を前提し、商品流通は、商品が貨幣として現われること、つまり貨幣流通を前提する。商品と貨幣とへの商品の二重化は、生産物が商品として現われることの一法則である。同様に、資本主義的商品生産は-社会的に見ても個別的に見ても-、貨幣形態にある資本すなわち貨幣資本を、すべての新たに始まる事業の起動力として、また連続的動力として、前提する。ことに流動資本は、貨幣資本が比較的短い間隔で絶えず繰り返し動力として現われることを前提する。前貸資本価値の全体、すなわちいろいろな商品から成っているすべての資本成分、つまり労働力や労働手段や生産材料はすべて絶えず貨幣で買われなければならないし、また繰り返し買われなければならない。ここで個別資本についていえることは、ただ多数の個別資本という形態で機能するにすぎない社会的資本についても言える。しかし、すでに第一部で明らかにしてように、そうだからといって、資本の機能場面つまり生産の規模が、資本主義的基礎の上でも、その絶対的な限界から見て、現に機能している貨幣資本の大きさにかかかっているということには、けっしてならないのである。前貸資本-ある与えられた価値額であって、その自由な形態では,つまりその価値形態では、ある貨幣額から成っている-は、生産資本に転化してからは、生産的な潜勢力を含んでおり、この力の限界は前貸資本の価値限界によって与えられているのではなくて、この力はある範囲内では外延的または内包的にさまざまに違った働きをすることができる、ということである。生産要素-生産手段と労働力-の価格が与えられていれば、商品として存在するこれらの生産要素の一定量を買うために必要な貨幣資本の大きさは、一定している。すなわち、前貸しされるべき資本の価値の大きさは一定している。しかし、この資本が価値形成者および生産物形成者として作用する範囲は、弾力的であり、可変的である。
第二の点について。
回転期間が労働期間の長さによって定められるかぎりでは、回転期間は、他の諸条件が変わらなければ、生産過程の物質的性質によって定められるのであり、したがってこの生産過程の独自な社会的性格によって定められるのではない。とはいえ、資本主義的生産の基礎の上では、比較的長く続く大規模な作業は、貨幣資本のかなり長い期間にわたるかなり大きな前貸を必要とする。だから、このような部面での生産は、個々の資本家が貨幣資本を自由に使用できる限度によって左右されるのである。この制限は、信用制度やそれと関連する結合体、たとえば株式会社によって破られる。それだから、貨幣市場の攪乱はこのような事業を停止させるのであるが、他方ではまたこのような事業そのものが貨幣市場の攪乱をひき起こすのである。
社会的生産の基礎の上では、このような、かなり長い期間にわたって労働力や生産手段を引きあげながらそのあいだ有用効果としての生産物を供給しない作業が、定められた基準に従って、年じゅう連続的または反複的に労働力や生産手段を引きあげるだけでなくまた生活手段や生産手段を供給しもする生産部門を害しないで遂行できるようにされなければならない。社会的生産の場合にも、資本主義的生産の場合と同様に、労働期間の比較的短い事業部門の労働者が生産物を返さずに生産物を引き上げている期間はやはり短いであろうし、他方、労働期間の長い事業部門は生産物を返す前にかなり長い期間にわたって引き続き生産物を引きあげているであろう。だから、このような事情は、その労働過程の物的な諸条件から生ずるのであって、その労働過程の社会的形態から生ずるのではない。社会的生産では貨幣資本はなくなる。社会は労働力や生産手段をいろいろな事業部門に配分する。生産者たちは、たとえば指定券を受け取って、それと引き換えに、社会の消費用在庫のなかから自分たちの労働時間に相当する量を引き出すことになるかもしれない。この指定券は貨幣ではない。それは流通しはしないのである。
要するに、貨幣資本の必要が労働期間の長さから生ずるかぎりでは、それは二つの事情によってひき起こされるのである。すなわち、第一には、およそ貨幣は、各個別資本が(信用を別とすれば)生産資本に転化するためにまずとらなければならない形態だということである。これは、資本主義的生産の、一般に商品生産の、本質から出てくることである。 第二には、必要な貨幣前貸が大きいということは、かなり長い期間にわたって絶えず労働力や生産手段が社会から引きあげられるのにこの期間中は貨幣に再転化できる生産物が社会に返されないという事情から生ずる。