摘要ノート「資本論」(36)

第13章 機械と大工業

第三節 機械経営が労働者に及ぼす直接的影響

大工業の出発点となるものは、すでに明らかにしたように、労働手段の革命であって、変革された労働手段はその最も発達した姿を工場の編成された機械体系において与えられる。…かの革命が労働者そのものに及ぼすいくつかの一般的な反作用を考察してみよう。

a 資本による補助労働力の取得  婦人・児童労働

b 労働日の延長

機械は、労働の生産性を高くするための、すなわち商品の生産に必要な労働時間を短縮するための、最も強力な手段だとすれば、機械は、資本の担い手としては、最初はまず機械が直接にとらえた産業で労働日をどんな自然的限界をも超えて延長するための最も強力な手段になる。機械は、一方では、資本が自分のこのような不断の傾向を赴くままにさせることを可能にする新たな諸条件をつくりだし、他方では、他人の労働にたいする資本の渇望をいっそう激しくする新たな動機をつくりだすのである。

機械の物質的な摩減は二重である。一方は、個々の貨幣が流通によって摩減するように、機械の使用から生じ、他方は、使われない剣が鞘の中で錆びるように、その非使用から生ずる。これは自然力による機械の消耗である。…しかし、物質的な摩減のほかに、機械はいわば無形の摩減の危険にもさらされている。同じ構造の機械がもっと安く再生産されうるようになるとか、この機械と並んでもっと優秀な機械が競争者として現われるようになるとかすれば、それに応じて機械は交換価値を失ってゆく。どちらの場合にも、たとえ機械そのものはまだ若くて生活力をもっていようとも、その価値は、もはや、実際にその機械自身に対象化されている労働時間によっては規定されないで、それ自身の再生産かまたはもっと優秀な機械の再生産に必要な労働時間によって規定されている。したがって、それは多かれ少なかれ減価している。

 機械が相対的剰余価値を生産するというのは、ただ、機械が労働力を直接に減価させ、また労働力の再生産に加わる諸商品を安くして労働力を間接に安くするからだけではなく、機械が最初にまばらに採用されるときには機械所有者の使用する労働を何乗もされた労働に転化させ、機械の生産物の社会的価値をその個別的価値よりも高くし、こうして資本家が一日の生産物のより小さい価値部分で労働力の日価値を補填することができるようにするからでもある。それゆえ、機械経営がまだ一種の独占になっているこの過渡期のあいだは、利得は異常に大きなものであって、資本家はこの「初恋の時代」をできるかぎりの労働日の延長によって徹底的に利用しようとするのである。
 同じ生産部門のなかで機械が普及してゆくにつれて、機械の生産物の社会的価値はその個別的価値まで下がる。そして、剰余価値は資本家が機械によって不必要にした労働力から生ずるのではなく逆に彼が機械につけて働かせる労働力から生ずるのだという法則が貫かれる。剰余価値はただ資本の可変部分だけから生ずるのであり、また、すでに見たように、剰余価値量は二つの要因によって、すなわち剰余価値率と、同じ時に働かされる労働者の数とによって、規定されている。労働日の長さが与えられていれば、剰余価値率は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれる割合いによって規定される。また、同じ時に働かされる労働者の数のほうは、不変資本部分にたいする可変資本部分の割合によって定まる。ところで、機械経営は労働の生産力を高くすることによって必要労働の犠牲において剰余労働を拡大するとはいえ、それがこのような結果を生みだすのは、ただ、与えられた一資本の使用する労働者の数を減らすからにほかならないということは明らかである。機械経営は、資本のうちの以前は可変だった部分、すなわち生きている労働力に転換された部分を、機械に、つまりけっして剰余価値を生産しない不変資本に、変える。たとえば、24人の労働者からしぼり出すのと同じ量の剰余価値を二人の労働者からしぼり出すということは、不可能である。24人の労働者のそれぞれは12時間についてたった一時間の剰余価値しか提供しないとしても、合計すれば24時間の剰余労働を提供するが、二人の労働者では総労働が24時間にしかならない。だから、剰余価値を生産するために機械を充用するということのうちには一つの内在的な矛盾がある。というのは、機械の充用が、与えられた大きさの一資本によって生み出される剰余価値の二つの要因のうちの一方の要因である剰余価値率を大きくするためには、ただ他方の要因である労働者数を小さくするよりはほかにないからである。この内在的な矛盾は、一つの産業部門で機械が普及するにつれて、機械で生産される商品の価値が同種のすべての商品の規制的な社会的価値になれば、たちまち外に現われてくる。そして、この矛盾こそは、またもや資本を駆り立てて、おそらく自分では意識することなしに、搾取される労働者の相対数の減少を相対的剰余労働の増加によるだけではなく絶対的剰余労働の増加によっても埋め合わせるために、むりやりな労働日の延長をやらせるのである。

こうして、機械の資本主義的充用は、一方では、労働日の無制限な延長への新たな強力な動機をつくりだし、そして労働様式そのものをも社会的労働体の性格をも、この傾向にたいする抵抗をくじくような仕方で変革するとすれば、他方では、一部は労働者階級のうちの以前は資本の手にはいらなかった階層を資本にまかせることにより、一部は機械に駆逐された労働者を遊離させることによって、資本の命ずる法則に従わざるをえない過剰な労働者人口を生みだすのである。こうして、機械は労働日の慣習的制限も自然的制限もことごとく取り払ってしまうという近代産業史上の注目に値する現象が生ずるのである。こうして、労働時間を短縮するための最も強力な手段が、労働者とその家族との全生活時間を資本の価値増殖に利用できる労働時間に変えてしまうための最も確実な手段に一変する、という経済的逆説が生ずるのである。

(注154)
機械を、ただ商品の生産手段としてだけでなく、また「過剰人口」としても把握したということは、リカードの大きな功績の一つである。

c 労働の強化

機械の進歩と、機械労働者という一つの独特な階級の経験の堆積とにつれて、労働の速度が、したがってまたその強度が自然発生的に増大するということは、自明である。…しだいに高まる労働者階級の反抗が国家を強制して、労働時間の短縮を強行させ、まず第一に本来の工場にたいして一つの標準労働日を命令させるに至ったときから、すなわち労働日の延長による剰余価値生産の増大の道がきっぱりと断たれたこの瞬間から、資本は、全力をあげて、また十分な意識をもって、機械体系の発達の促進による相対的剰余価値の生産に熱中した。それと同時に、相対的剰余価値の性格に一つの変化が現われてくる。一般的にいえば、相対的剰余価値の生産方法は、労働の生産力を高くすることによって、労働者がおなじ労働支出で同じ時間により多くを生産することができるようにする、ということである。同じ労働時間は相変わらず総生産物には同じ価値をつけ加える、といっても、この不変の交換価値が今ではより多くの使用価値で表わされ、したがって一個の商品の価値は下がるのであるが。ところが、生産力の発展と生産条件の節約とに大きな刺激を与える強制的な労働日の短縮が、同時にまた、同じ時間内の労働支出の増大、より大きい労働力の緊張、労働時間の気孔のいっそうの濃密な充填、すなわち労働の濃縮を、短縮された労働日の範囲内で達成できるかぎりの程度まで、労働者に強要することになれば、事態は変わってくる。このような、与えられたある時間内により大量の労働が圧縮されたものは、いまや、そのとおりのものとして、つまりより大きい労働量として、数えられる。「外延的な大きさ」としての労働時間の尺度と並んで、今度はその密度の尺度が現われる。

労働日の短縮は、最初はまず労働の濃縮の主体的な条件、すなわち与えられた時間により多くの力を流動させるという労働者の能力をつくりだすのであるが、このような労働日の短縮が法律によって強制されるということになれば、資本の手のなかにある機械は、同じ時間により多くの労働をしぼりとるための客体的な、体系的に充用される手段になる。そうなるには二通りの仕方がある。すなわち、機械の速度を高くすることと、同じ労働者の見張る機械の範囲、すなわち彼の作業場面の範囲を広げることである。

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