摘要ノート「資本論」(29)

第11章  協 業

資本主義的生産が実際にはじめて始まるのは、同じ個別資本がかなり多数の労働者を同時に働かせるようになり、従ってその労働過程が規模を拡張して量的にかなり大きい規模で生産物を供給するようになったときのことである。かなり多数の労働者が、同じときに、おなじ空間で(または、同じ労働場所で、といってもよい)、同じ種類の商品の生産のために、同じ資本家の指揮の下で働くということは、歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点をなしている。生産様式そのものに関しては、たとえば初期のマニュファクチュアを同職組合的手工業から区別するものは、同時に同じ資本によって働かされる労働者の数がより大きいということのほかには、ほとんどなにもない。とはいえ、ある限界のなかでは、ある変化が生ずる。価値に対象化される労働は、社会的平均の労働であり、したがって平均的労働力の発現である。ところが、平均量というものは、つねにただ同種類の多数の違った個別量の平均として存在するだけである。価値増殖一般の法則は、個々の生産者にとっては、彼が資本家として生産し多数の労働者を同時に充用し、したがってはじめから社会的平均労働を動かすようになったときに、はじめて完全に実現されるのである。

労働様式は変わらなくても、かなり多くの労働者を同時に充用することは、労働過程の対象的諸条件に一つの革命をひき起こす。多くの人々がそのなかで労働する建物や、原料などのための倉庫や、多くの人々に同時にまたは交替に役立つ容器や用具や装置など、要するに生産手段の一部分が労働過程で共同で消費されるようになる。…これによって不変資本の一つの価値成分は低下し、従ってこの成分の大きさに比例して商品の総価値も低下する。その結果は、ちょうどこの商品の生産手段がより安く生産されるようになったようなものである。このような、生産手段の充用における節約は、ただ、それを多くの人々が労働過程で共同に消費することだけから生ずるものである。そして、この生産手段は、別々に独立している労働者や小親方の分散した相対的に高価な生産手段とは違った、社会的労働の条件または労働の社会的条件としてのこの性格を、多くの人々がただ場所的に集合して労働するだけで協力して労働するのではない場合にも、受け取るのである。労働手段の一部分は、この社会的性格を、労働過程そのものがそれを得るよりもさきに、得るのである。

生産手段の節約は、一般に、二重の観点から考察されなければならない。
第一には、この節約が商品を安くし、またそうすることによって労働力の価値を低下させるかぎりで。第二には、それが、前貸し総資本にたいする、すなわち総資本の不変成分と可変成分との価値総額にたいする剰余価値の割合を変化させるかぎりで。

同じ生産過程で、また同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっしょに協力して労働するという労働の形態を、協業という。

個々別々のいくつもの労働日の総計と、それと同じ大きさの一つの結合労働日とを比べれば、後者はより大量の使用価値を生産し、したがって一定の有用効果の生産のために必要な労働時間を減少させる。与えられた場合に結合労働日がこの高められた生産力を受け取るのは、・・・どんな事情のもとでも、結合労働日の独自な生産力は、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力なのである。この生産力は協業そのものから生ずる。他人との計画的な協働のなかでは、労働者は彼の個体的な限界を脱け出て彼の種族能力を発揮するのである。

最初は、同時に搾取される労働者の数、したがって生産される剰余価値の量が、労働充用者自身を手の労働から解放して小親方を資本家にして資本関係を形態的につくりだすのに十分なものとなるためには、個別資本の或る最小限度の大きさが必要なものとして現われた。いまでは、この最小限度の大きさは、多数の分散している相互に独立な個別的労働過程を一つの結合された社会的労働過程に転化するための物質的条件として現われるのである。
 同様に、最初は、労働にたいする資本の指揮も、ただ、労働者が自分のためにではなく資本家のために、したがってまた資本家のもとで労働するということの形態的な結果として現われただけだった。多数の賃金労働者の協業が発展するにつれて、資本の指揮は、労働過程そのものの遂行のための必要条件に、一つの現実の生産条件に、発展してくる。生産場面での資本家の命令は、いまでは戦場での将軍の命令のようになくてはならないものになるのである。
 この指揮や監督や媒介の機能は、資本に従属する労働が協業的になれば、資本の機能になる。資本の独自な機能として、指揮の機能は独自な性格をもつことになるのである。

資本家の指揮は内容から見れば二重的であって、それは、指揮される生産過程そのものが一面では生産物の生産のための社会的な労働課程であり他面では資本の価値増殖過程であるというその二重性によるのであるが、この指揮はまた形態から見れば専制的である。いっそう大規模な協業の発展につれて、この専制はその特有な諸形態を展開する。資本家は彼の資本が本来の資本主義的生産の開始のためにどうしても必要な最小限度の大きさに達したとき、まず手の労働から解放されるのであるが、今度は、彼は、個々の労働者や労働者郡そのものを絶えず直接に監督する機能を再び一つの特別な種類の賃金労働者に譲り渡す。一つの軍隊が仕官や下士官を必要とするように、同じ資本の指揮のもとで協働する一つの労働者集団は、労働課程で資本の名によって指揮する産業士官(支配人)や産業下士官(職工長)を必要とする。監督という労働が彼らの専有の機能に固定するのである。独立農民や独立手工業者の生産様式を奴隷制にもとずく植民地農場経営と比較する場合には、経済学者はこの監督労働を生産の空費に数える。これに反して、資本主義的生産様式の考察にさいしては、経済学者は、共同的な労働過程から生ずるかぎりでの指揮の機能をこの過程の資本主義的な、したがって敵対的な性格によって必然的にされるかぎりでの指揮の機能と同一視する。資本家は、産業の指揮官だから資本家なのではなく、彼は、資本家だから産業の司令官になるのである。産業における最高司令官が資本の属性になるのは、封建時代に戦争や裁判における最高司令官が土地所有の属性だったのと同じことである。

独立の人としては、労働者たちは個々別々の人であって、彼らは同じ資本と関係を結ぶのではあるが、お互いどうしでは関係を結ばないのである。彼らの協業は労働過程にはいってからはじめて始まるのであるが、しかし労働過程では彼らはもはや自分自身のものではなくなっている。労働過程にはいると同時にかれらは資本に合体されている。協業者としては、一つの活動有機体の手足としては、彼ら自身はただ資本の一つの特殊な存在様式でしかない。それだからこそ、労働者が社会的労働者として発揮する生産力は資本の生産力なのである。労働の社会的生産力は、労働者が一定の諸条件のもとにおかれさえすれば無償で発揮されるのであり、そして資本は彼らをこのような諸条件のもとにおくのである。労働の社会的生産力は資本にとってはなんの費用もかからないのだから、また他方この生産力は労働者の労働そのものが資本のものになるまでは労働者によって発揮されないのだから、この生産力は、資本が生来もっている生産力として、資本の内在的な生産力として、現われるのである。

大規模な協業の応用は古代世界や中世や近代植民地にもまばらに現われているが、これは直接的な支配隷属関係に、たいていは奴隷制に、もとづいている。これに反して、資本主義的形態は、はじめから、自分の労働力を資本に売る自由な賃金労働者を前提にしている。とはいえ、歴史的にはそれは、農民経営にたいして、また同職組合的形態をそなえているかどうかにかかわりなく独立手工業経営にたいして、対立して発展する。これらのものにたいして資本主義的協業が協業の一つの特別な歴史的な形態として現われるのではなく、協業そのものが、資本主義的生産過程に特有な、そしてこの生産過程を独自なものとして区別する歴史的形態として現われるのである。

協業によって発揮される労働の社会的生産力が資本の生産力として現われるように、協業そのものも、個々別々な独立な労働者や小親方の生産過程に対立して資本主義的生産過程の独自な形態として現われる。それは、現実の労働過程が資本への従属によって受ける最初の変化である。この変化は自然発生的に起きる。その前提、同じ労働過程での比較的多数の賃金労働者の同時的使用は、資本主義的生産の出発点をなしている。この出発点は資本そのものの出現と一致する。それゆえ、一方では、資本主義的生産様式は、労働過程が一つの社会的過程に転化するための歴史的必然性として現われるのであるが、他方では、労働過程のこの社会的形態は、労働課程をその生産力の増大によっていっそう有利に搾取するために資本が利用する一方法として現われるのである。

これまで考察してきたその単純な姿では協業は比較的大規模な生産と同時に現われるのであるが、しかし、それは資本主義的生産様式のある特別な発展期の固定的な特徴的な形態をなすものではない。それがほぼこのようなものとして現われるのは、せいぜい、まだ手工業的だった初期のマニュファクチュアにおいてである。

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