摘要ノート「資本論Ⅲ」(2)

資本論 第3巻

第一篇 剰余価値の利潤への転化と
剰余価値率の利潤率への転化

第二章  利潤率

資本家にとっては、自分は可変資本から利得をたたきだすために不変資本を前貸しするのだというように事柄を見るか、それとも不変資本を増殖するために可変資本を前貸しするのだというように見るか、すなわち、機械や原料により大きい価値を与えるために貨幣を労賃に投ずるのだと見るか、それとも労働を搾取することができるようにするために貨幣を機械や原料に前貸しするのだと見るかは、どちらでもかまわないのである。ただ資本の可変部分だけが剰余価値を創造するのであるが、それが剰余価値を創造するのは、ただ、他方の諸部分すなわち労働の生産条件も前貸しされるという条件のもとでのみ行なわれることである。資本家はただ不変資本を前貸しすることによってのみ労働を搾取することができるのだから、また彼はただ可変資本を前貸しすることによってのみ不変資本を増殖することができるのだから、彼にとってはこれらのことは観念のなかではみな同じことになってしまうのであり、しかも、彼の利得の現実の度合いは可変資本にたいする割合によってではなく利潤率によって規定されており、この利潤率はあとで見るようにそれ自身は同じままでもいろいろに違った剰余価値率を表わすことができるのだから、ますますそうなるのである。生産物の費用のなかには、生産物の価値成分のうち資本家が支払ったすべてのもの、または彼がその等価を生産に投じたすべてのものがはいる。これらの費用は、資本が単に維持されるために、またはその最初の大きさで再生産されるために、補填されなければならないのである。
商品に含まれている価値は、商品の生産に費やされる労働時間に等しく、またこの労働の総量は支払労働と不払労働とから成っている。これに反して、資本家にとっての商品の費用は、商品に対象化されている労働のうちの彼が支払った部分だけから成っている。商品に含まれている剰余労働は、労働者には支払労働とまったく同じに労働を費やさせるにもかかわらず、また支払労働とまったく同じに価値を創造し価値形成要素として商品に入るにもかかわらず、資本家にとってはなんの費用もかからないのである。資本家の利潤は、自分が代価を支払っていないものを売ることができるということから生ずる。剰余価値または利潤は、まさに商品価値が商品の費用価格を超える超過分なのである。だから、剰余価値は、それがどこから生まれるにせよ、とにかく前貸総資本を超える超過分である。だから、この超過分は総資本にたいしてm/C という分数で表わされる割合をなしているのである。このC は総資本を意味するものである。こうしてわれわれは剰余価値率 m/v とは別ものである利潤率 m/C=m/c+v を得るのである。
 可変資本で計られた剰余価値の率は剰余価値率と呼ばれ、総資本で計られた剰余価値の率は利潤率と呼ばれる。この二つの率は、同じ量を二つの違った仕方で計ったものであって、尺度が違っているために同時に同じ量の違った割合または関係を表わすのである。
 剰余価値率の利潤率への転化から剰余価値の利潤への転化が導き出されるべきであって、その逆ではない。そして、実際にも利潤率が歴史的な出発点になるのである。剰余価値と剰余価値率とは、相対的に、目には見えないものであって、探求されなければならない本質的なものであるが、利潤率は、したがってまた利潤としての剰余価値の形態は、現象の表面に現われているものである。個々の資本家について言えば、彼が関心を持つ唯一のものは、商品の生産のために前貸しした総資本に対する剰余価値の、または自分の商品を売って得られる価値超過分の、割合だということは明らかである。他方、資本の特殊な諸成分に対するこの超過分の特定の割合にも、またその諸成分とこの超過分との内的な関連にも、彼はただ関心を持たないだけでなく、むしろ、この特定の割合やこの内的な関連については自分の目をくらますことのほうが彼の関心事なのである。

商品の費用価格を超える商品価値の超過分は直接的生産過程で生ずるのではあるが、それは流通過程ではじめて実現されるのであって、それが流通過程から生ずるかのような外観をますますもちやすくなるのは、この超過分が実現されるかどうか、またその程度に実現されるかは、現実には、競争のなかでは、現実の市場では、市場の状況にかかっているからである。流通過程では労働期間のほかに流通帰還が作用することになり、それによって、一定の期間に実現可能な剰余価値の量が制限される。そのほかにも、流通から生ずる契機で直接的生産過程に規定的に干渉するものがある。この両者、直接的生産過程と流通過程とは、いつでも互いに食いこみ合い、侵入し合っており、そのためにそれぞれの特徴的な区別標識が紛らわしくなるのが常である。剰余価値の生産も価値一般の生産も、流通過程では、前に示したように、新たな諸規定を受け取る。資本はその諸転化の連環を通る。最後に資本はいわばその内的な有機的生活から外的な生活関係にはいる。この関係のなかでは、資本と労働とが相対するのではなく、一方では資本と資本とが相対し、他方では諸個人もまた再びただ買い手と売り手として相対するのである。流通期間と労働期間とは、互いに交錯する軌道を描き、したがってどちらも一様に剰余価値を規定するかのように見える。資本と賃労働とが相対している元来の形態は、外観上はこの形態から独立な諸関係の混入によって変装させられる。剰余価値そのものは労働期間の取得の産物としては現われないで、商品の費用価格を超える商品の販売価格の超過分として現われ、したがって費用価格がたやすく商品の固有価値として現われ、そのために利潤は商品の内在的な価値を超える商品の販売価格の超過分として現われるのである。
 もちろん、直接的生産過程でも剰余価値の性質は絶えず資本家の意識にのぼるのであって、それは、すでに剰余価値の考察にさいして他人の労働時間にたいする資本家の貪欲などがわれわれに示したとおりである。しかし、(1)直接的生産過程そのものも一つの消滅して行く契機でしかないのであって、それは絶えず流通過程に移って行き、、また流通過程も生産過程に移って行くのであり、したがって、生産過程で明瞭または不明瞭に浮かび上がってくるところの、そこで得られる利得の源泉すなわち剰余価値の性質に関する予感も、せいぜい次のような観念と並んで同権の一契機として現われるにすぎないのである。その観念というのは、実現された超過分の源泉は、生産過程からは独立な、流通そのものから生ずる、したがって労働にたいする資本の関係にはかかわりなく資本に属する運動だという観念である。・・・
(2)原料の価格や機械の摩減分などとともに労賃をも含んでいる費用という項目のもとでは、不払労働の搾取は、ただ、費用のなかにはいるいろいろな品目のうちの一つに対する支払の節約として、すなわち、ただ、一定量の労働に対するより少ない支払として、現われるだけである。この節約は、原料をよりやすく買い入れたり機械の摩減分を減らしたりするのとまったく同じなのである。こうして剰余労働の搾取はその独自な性格をなくしてしまう。剰余価値に対する剰余労働の独自な関係はわからなくなる。そして、このことは、労働力の価値が労賃という形態で表わされることによって、いっそう助長され容易にされるのである。

資本のすべての部分が一様に超過価値(利潤)の源泉として現われるということによって、資本関係は不可解にされる。とはいえ、利潤率を通じての移行によって剰余価値が利潤という形態に転化させられる仕方は、すでに生産過程で起きている主体と客体との転倒がいっそう発展したものであるにすぎない。すでに生産過程でわれわれは労働のすべての主体的な生産力が資本の生産力として現われるのを見た。一方では、価値が、すなわち生きている労働を支配する過去の労働が、資本家において人格化される。他方では、逆に、労働者が、単に対象的な労働力として、商品として、現われる。このような転倒された関係からは、必然的に、すでに単純な生産関係そのもののなかでも、それに対応する転倒された観念、移調された意識が生ずるのであって、この意識は本来の流通過程の諸転化や諸変形によっていっそう発展させられるのである。

利潤率そのものが示しているものは、むしろ、資本の同じ大きさの諸部分にたいするこの超過分の一様な関係であって、資本は、この観点から見れば、固定資本と流動資本との区別ほかにはおよそどんな内的な区別も示さないのである。そして、この固定資本と流動資本との区別を示すのも、ただ、超過分が二通りに計算されるからでしかない。すなわち、第一には費用価格を越える超過分という単純な量として、このような、超過分の第一の形態では、流動資本は全部費用価格にはいるが、固定資本のほうは摩減分だけしか費用価格にはいらない。さらに第二には、前貸資本の総価値にたいするこの価値超過分の割合として。この場合には固定資本全体の価値が流動資本の価値と同様に計算にはいる。つまり、流動資本はどちらの場合にも同じ仕方で計算にはいるが、固定資本のほうは、一方では流動資本と違う仕方で計算にはいり、他方では流動資本と同じ仕方で計算にはいるのである。こうして、流動資本と固定資本との区別がここでは唯一の区別として迫ってくるのである。
 それゆえ、利潤率は剰余価値率とは数的に違っており、他方剰余価値と利潤とは事実上同じであり数的にも等しいのであるが、それにもかかわらず、利潤は剰余価値の転化形態なのであって、この形態では剰余価値の源泉もその存在の秘密も覆い隠され消し去られているのである。じっさい、利潤は剰余価値の現象形態であって、剰余価値は分析によってはじめて利潤からむきだされなければならないのである。剰余価値では資本と労働との関係はむきだしになっている。資本と利潤との、すなわち資本と剰余価値-といっても一方では流通過程で実現される、商品の費用価格を超える超過分として現われ、他方では、総資本に対する割合によってより詳しく規定された超過分として現われる剰余価値-との関係のなかでは、資本は自分自身に対する関係として現われるのであり、この関係のなかでは資本は本源的価値額としてそれ自身が生みだした新価値から区別されるのである。資本はこの新価値を生産過程と流通過程を通るそれ自身のの運動のなかで生みだすということ、これは意識されている。しかし、どのようにしてそれが行なわれるかは、今では不可解にされていて、資本そのものにそなわる隠れた性質から出てくることのように見えるのである。

われわれが資本の価値増殖過程を追跡して行けば行くほど、ますます資本関係は不可解になるであろうし、ますますその内部組織の秘密をむき出しにしなくなってゆくであろう。

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