摘要ノート「資本論Ⅱ」(15)

第二篇 資本の回転

第八章 固定資本と流動資本

第一節 形態上の相違

不変資本の一部分は、不変資本が生産過程にはいるときの一定の使用形態を、その不変資本の協力によって形成された生産物にたいして、元のまま保持している。すなわち、それは、長短の期間にわたって、絶えず繰り返される労働過程で、絶えず繰り返し同じ機能を行なうのである。たとえば、作業用の建物や機械など、要するにわれわれが労働手段という名称のもとに総括するものは、すべてそういうものである。不変資本のこの部分は、それ自身の使用価値とともにそれ自身の交換価値を失うのに比例して、生産物に価値を引き渡す。このような価値の引渡し、すなわち、このような生産手段の価値がそれの協力によって形成される生産物に移ることは、一つの平均計算によって定められる。この移転は、その生産手段が生産過程にはいる瞬間から、それがすっかり使いきられ死んでしまって同種の新品と取り替えられるかまたは再生産されるかしなければならなくなる瞬間に至るまでの、この生産手段の機能の平均的持続期間によって計られる。

資本価値のうちのこのように労働手段に固定されている部分も、やはり流通するのであって、このことは他のどの部分とも変わらない。われわれが一般的に見てきたように資本価値全体が絶えず流通しているのであり、したがって、この意味ではすべての資本は流通している資本である。しかし、個々で考察される資本部分の流通は独特なものである。第一に、この部分はその使用形態で流通するのではなく、ただその価値だけが流通するのであり、しかも、それがこの資本部分から商品として流通する生産物に移って行くのにつれてだんだん少しずつ流通するのである。労働手段が機能する全期間にわたってその価値の一部分はつねにそれに固定されており、それの助力によって生産される商品にたいして独立に固定されている。この特性によって、不変資本のこの部分は、固定資本という形態を受け取る。これに反して、生産過程で前貸しされている資本の他のすべての素材的成分は、この固定資本に対して、流動資本を形成するのである。

生産手段に投ぜられた資本価値の一部分に固定資本の性格を与える規定は、ただ、この価値が流通する独特な仕方にあるだけである。この特有な流通の仕方は、労働手段がその価値を生産物に移すときの、または生産過程で価値形成者として働くときの、特有な仕方から生ずるのである。そして、この仕方そのものもまた労働過程で労働手段が機能する特殊な仕方から生ずるのである。だれでも知っているように、一方の労働過程から生産物としてでてくるその同じ使用価値が他方の労働過程には生産手段としてはいって行く。ただ、生産物が生産過程で労働手段として行なう機能だけがその生産物を固定資本にするのである。それに反して、その生産物自身がただ過程から出てきただけでは、それはけっして固定資本ではない。たとえば、機械は、機械製造業者の生産物または商品としては、彼の商品資本に属する。それは、その買い手、すなわちそれを生産的に充用する資本家の手のなかではじめて固定資本になるのである。
 本来の意味での労働手段ではない生産手段、たとえば補助材料や原料や半製品などでも、価値の引き渡しという点で、したがってまたその価値の流通の仕方という点で、労働手段と同じ事情にあるならば、それもやはり固定資本の素材的な担い手であり、固定資本の存在形態である。

根本的な誤り -固定資本と流動資本という範疇と不変資本と可変資本という範疇との混同 -は別としても、経済学者たちのあいだに見られる従来の概念規定の混乱は、なによりもまず次の諸点にもとづくものである。
 人々は、労働手段が素材としてもっている特定の諸属性、たとえば家屋などの物理的な不動性のようなものを、固定資本の直接的属性だとする。このような場合にいつでもたやすく指摘できるのは、労働手段としてやはり固定資本である他の労働手段が反対の属性をもっているということであり、たとえば船などの物理的な可動性である。あるいはまた、価値の流通から生ずる経済上の形態規定を物的な属性と混同する。あたかも、それ自身ではけっして資本ではなくてただ特定の社会的諸関係のもとでのみ資本になる物が、それ自体としてすでに生まれながらに固定資本とか流動資本とかいう一定の形態の資本でありうるかのように。生産手段は、労働過程がどのような社会的諸条件のもとで行なわれようと、どの労働過程でも労働手段と労働対象とに分けられる。しかし、資本主義的生産様式のなかではじめてこの二つのものが資本になるのであり、しかも前の篇で規定されたような[生産資本]になるのである。それと同時に、労働過程の性質にもとづく労働手段と労働対象との相違が、固定資本と流動資本との相違という新しい形態で反映するのである。これによってはじめて労働手段として機能する物が固定資本になる。もしその物がその素材的諸属性によって労働手段の機能以外の諸機能にも役立つことができれば、それはその機能の相違にしたがって固定資本であることもあればそうでないこともある。家畜は、役畜としては固定資本である。肥育家畜としては、最後には生産物として流通にはいって行く原料であり、したがって固定資本でなく流動資本である。

ある生産手段が、いくつもの繰り返される労働過程、といっても互いに関連し連続し、したがって一つの生産期間 -すなわち生産物を完成するために必要な総生産時間 -を形成するいくつもの労働過程に、ただいくらか長いあいだ固定されているだけでも、固定資本とまったく同じに資本家にとっては長短の前貸を必要にさせるが、しかしそれだけでは彼の資本を固定資本にはしない。たとえば、種子は固定資本ではなくて、約一年間生産過程に固定されている原料であるにすぎない。すべての資本は、生産資本として機能しているあいだは生産過程に固定されているのであり、したがってまた生産資本のすべての要素は、その素材的な姿やその機能やその価値の流通様式がどうであろうと、生産過程に固定されているのである。このように固定されていることは生産過程の種類や目ざす有用効果の相違によって長いことも短いこともあるが、その長短によっては固定資本と流動資本との相違は生じないのである。

固定資本の独特な流通からは独特な回転が生ずる。固定資本がその現物形態の損耗によって失う価値部分は、生産物の価値部分として流通する。生産物はその流通によって商品から貨幣に転化する。したがってまた、労働手段の価値のうち生産物によって流通させられる部分も貨幣に転化し、しかもその価値は、この労働手段が生産過程での価値の担い手でなくなって行くのと同じ割合で、流通過程から貨幣になってしたたり落ちてくる。だから、労働手段の価値は今では二重の存在をもつことになる。その一部分は、生産過程に属するその使用形態または現物形態に縛りつけられたままであり、もう一つの部分は貨幣なってこの形態からはなれる。労働手段がその機能を果たしていくにつれて、その価値のうち現物形態で存在する部分は絶えず減って行くが、貨幣形態に転換される部分は絶えずまして行って、最後にこの労働手段がその生涯を終わってその全価値がその死体から離れて貨幣に転化してしまうことになる。この点に、生産資本のこの要素の回転の特徴が現われている。この要素の価値の貨幣への転化は、その価値の担い手である商品の貨幣蛹化と同じ歩調で進んで行く。しかし、貨幣形態から使用形態へのその再転化は、他の生産要素への商品の再転化からは分かれて、むしろそれ自身の再生産周期によって規定されている。すなわち、労働手段が消耗しつくして同種の別の品に取り替えられなければならなくなるまでの時間によって規定されている。…この再生産期間が始まるまでは、機械の価値は、だんだんに、さしあたりは準備金の形で、蓄積されて行くのである。

生産資本のうちの他の要素は、一部分は、補助材料や原料の形で存在する不変資本からなっており、一部分は、労働力に投ぜられた可変資本から成っている。…不変資本のうち補助材料や原料から成っている部分の価値は -労働手段から成っている部分の価値とまったく同じに-ただ移転されただけの価値として生産物の価値に再現するが、労働力は労働過程によって自分の価値の等価を生産物につけ加える。言い換えれば、自分の価値を現実に再生産する。補助材料や原料がその生産物形成のために全部消費されるかぎり、それらはその全価値を生産物に移す。したがってまたその価値の全体が生産物によって流通させられ、貨幣に転化し、また貨幣から商品生産要素に再転化する。この価値の回転は、固定資本の回転のように中断されることなく、その諸形態の全循環を絶えまなく通り、したがって生産資本のこれらの要素は絶えず現物で更新される。生産資本のうち労働力に投ぜられる可変的な成分について言えば、労働力は一定の時間を限って買われる。資本家が労働力を買って生産過程に合体させてしまえば、それは彼の資本の一成分をなしており、しかもその可変的な成分をなしている。…連続的な生産の循環が中断されないようにするためには、労働力の機能中に生産物に付け加えられて生産物の流通とともに貨幣に転化させられる労働力の価値の等価は、絶えず貨幣から労働力に再転化させられ、絶えずその諸形態の完全な循環を描かなければならない。すなわち回転しなければならない。
 こういうわけで、生産資本の価値のうち労働力に前貸しされた部分は、その全体が生産物に移り、流通部面に属する二つの変態を生産物といっしょに通り、そしてこの不断の更新によってつねに生産物に合体されている。だからその他の点では、すなわち価値形成に関しては、労働力と固定資本を形成しない不変資本成分とのあいだにどんな相違があろうとも、労働力の価値のこのような回転の仕方は、固定資本に対立して、労働力とこの不変資本成分とに共通なものである。生産資本のこれらの成分 -生産資本価値のうち労働力に投ぜられた部分と固定資本を形成しない生産手段に投ぜられた部分と -は、このような、それらに共通な回転の性格によって、固定資本に対して流動資本として相対するのである。

これまでのところからは、次のような結論がでてくる。
(1) 固定資本と流動資本という形態規定は、ただ、生産過程で機能する資本価値、すなわち生産資本の回転の相違から生ずるだけである。この回転の相違はそれ自身また、生産資本のいろいろな成分が自分の価値を生産物に移す仕方の相違から生ずるのであって、それらの成分が生産物価値の生産に関与する仕方の相違または価値増殖過程でのそれらの特徴的な働き方から生ずるのではない。最後に、生産物に価値を引き渡す仕方の相違は -したがってまたこの価値が生産物によって流通させられ、生産物の諸変態によって自分の元来の現物形態で更新される仕方の相違も -生産資本がとっているいろいろな素材的な姿の相違、すなわちそれらの素材的な姿の一部分は個々の生産物の形成中に全部消費されるが他の部分はだんだん消費されて行くだけだという相違から生ずる。だから、ただ生産資本だけが固定資本と流動資本とに分かれることができるのである。これに反して、このような対立は、産業資本の他の二つの存在様式にとっては、つまり商品資本にとっても貨幣資本にとっても、存在しないのであり、また生産資本に対するこの両者の対立としても存在しないのである。それは、ただ生産資本にとって、そしてただ生産資本のなかで、存在するだけである。貨幣資本や商品資本がどんなによく資本として機能し、どんなに流動的に流通しようとも、それらが固定資本に対して流動資本になることができるのは、それらが生産資本の流動的な成分に転化してからのことである。
(2) 資本の固定的成分の回転は、したがってまたそれに必要な回転期間は、資本の流動的成分のいくつかの回転を包括している。固定資本が一回転する時間に流動資本は何回も回転する。生産資本の一方の価値成分が固定資本という形態規定を受け取るのは、ただ、この価値成分を担っている生産手段が、生産物が完成されて商品として生産過程から突き出されるまでの時間のあいだに使い尽くされてしまわないかぎりでのことである。この資本成分の価値の一部分は、他の部分が完成生産物によって流通させられているときにも、元のまま使用形態に縛りつけられていなければならないが、これに反して、この完成生産物の流通は同時に資本の流動的成分の総価値を流通させるのである。
(3) 生産資本の価値のうち固定資本に投ぜられた部分は、生産手段のうちで固定資本をなしている部分が機能する全期間のために全部一度に前貸しされている。つまり、この価値は資本家にとって一度に流通に投ぜられる。しかし、それは、固定資本が商品に少しずつつけ加えていく価値部分の実現によって、ただ少しずつだんだんに再び流通から引き上げられていくだけである。他方、生産資本の一つの成分がそれに固定される生産手段そのものは、一度に流通から引きあげられて、それが機能する全期間にわたって生産過程に合体されるのであるが、しかしこの期間中は同種の新品による補填を必要とせず、再生産を必要としない。それは、流通に投げ込まれる諸商品の形成のために長短の期間引き続き役立つのであるが、それ自身は自分の更新のための諸要素を流通からひきあげないのである。つまり、この期間中はそれ自身としても資本家の側からの前貸しの更新を必要としないのである。
 最後に、固定資本に投ぜられた資本価値は、この価値を担っている生産手段の機能が続いているあいだに、その諸形態の循環を通る、といっても、素材的にではなく、ただその価値だけであり、しかもただ一部分ずつだんだんに通って行くだけである。すなわち、その価値の一部分は、絶えず商品の価値部分として流通させられて貨幣に転化して行くのであるが、貨幣から最初の現物形態に再転化することなしに、それを続けるのである。このような、生産手段の現物形態への貨幣の再転化は、生産手段がすっかり使い切られてしまうその機能期間の終末にはじめて行なわれるのである。
(4) 流動資本の諸要素も固定資本の諸要素と同様にいつでも生産過程に -これが連続的であるためには -固定されている。だが、このように固定された流動資本の諸要素は、絶えず現物で更新される(生産手段は同種の新品によって、労働力は絶えず繰り返される買い入れによって)。ところが、固定資本の諸要素のほうは、それが使用に耐えるあいだは、それ自身が更新されることもないし、その買い入れが更新される必要もない。生産過程にはいつでも原料や補助材料があるが、しかし、いつでも、古いものが完成生産物の形成のために消費されてしまったあとに同種の新品があるのである。労働力も同様に絶えず生産過程にあるが、しかしそれはただその買い入れが絶えず更新されることによってそこにあるのであり、しかも個々人は入れ替わることも多いのである。これに反して、建物や機械などは、流動資本の回転が何回も繰り返されるあいだ、繰り返し行なわれる同じ生産過程で同じものが引き続き機能しているのである。

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