摘要ノート「資本論Ⅱ」(11)

第一篇 資本の諸変態とその循環

第四章  循環過程の三つの図式

三つの形態を総括して見れば、過程のすべての前提は、過程の結果として、過程自身によって生産された前提として、現われている。それぞれの契機が出発点、通過点、帰着点として現われる。総過程は生産過程と流通過程との統一として表わされる。生産過程は流通過程の媒介者となり、また逆に後者が前者の媒介者になる。絶えず回転している円では、すべての点が出発点であると同時に帰着点である。回転を中断して見れば、どの出発点も帰着点であるとはかぎらない。こうしてわれわれが見てきたように、それぞれの特殊な循環が他のそれを(暗黙のうちに)前提しているだけでなく、ある一つの形態での循環の繰り返しは、他の諸形態で循環を描くことを含んでいるのである。こうして、各循環の相違の全体が、単に形式上の相違として、あるいはまた単に主観的な、ただ考察にとって存在するだけの相違として、現われるのである。これらの循環のそれぞれが、いろいろな個別産業資本のとる特殊な運動形態と見られるかぎりでは、この相違もやはりただ個別的な相違として存在するだけである。しかし、現実には、どの個別産業資本も三つの循環のすべてを同時に行っているのである。この三つの循環、資本の三つの姿の再生産形態は、連続的に相並んで行なわれる。たとえば、いま商品資本として機能している資本価値の一部分は貨幣資本に転化するが、それと同時に他の一部分は生産過程から出てきて新たな商品資本として流通に入る。このようにして W'…W' という円形が絶え間なく描かれる。他の二つの形態も同様である。どの形態、どの段階にある資本の再生産も、これらの形態の変態や次々になされる三つの段階の通過と同じに、連続的である。だから、ここでは総循環はその三つの形態の現実の統一なのである。しかし、連続性は、資本主義的生産の特徴であって、その技術的基礎によって必然的にされている。といっても必ずしも無条件に達成されるのではないが。
 それゆえ、連続的に行なわれる産業資本の現実の循環は、ただ単に流通過程と生産過程との統一であるだけではなく、その三つの循環全部の統一である。しかし、それがこのような統一でありうるのは、ただ資本のそれぞれの部分が循環の相続く諸段階を次々に通り過ぎることができ、一つの段階、一つの機能形態から次のそれに移行することができ、したがってこれらの部分の全体としての産業資本が、同時に別々の段階にあって別別の機能を行い、こうして三つの循環のすべてを同時に描くというかぎりでのことである。各部分が次々に続くことは、ここでは、諸部分が相並ぶことを、すなわち資本の分割を、条件としている。たとえば、分業編成による工場体制では、生産物が絶えずその形成過程の別々の段階にあるとともに、一つの生産段階から次の生産段階に移行しつつあるのである。個別産業資本はある一定の大きさを表わしており、この大きさは資本家の資力によって定まると同時に各産業部門について一定の最小限度があるのだから、資本の分割には一定の割合がなければならない。既存の資本の大きさは生産過程の規模を制約し、この規模は、生産過程と並んで機能するかぎりでの商品資本や貨幣資本の大きさを制約する。しかし、生産の連続性の条件をなす(各部分の)並列は、ただ資本の諸部分が次々に別々の段階を通っていく運動によってのみ存在する。この並列はそれ自体この契機の結果にほかならない。

過程を表わしているすぐ目につく形態は、新たな段階への資本の移行が他の段階からの退去によって必然的にされているという諸段階の連続の形態である。したがってまた、それぞれの特殊な循環はどれも資本の機能形態のどれか一つを出発点とし帰着点としている。他方、総過程は事実上三つの循環の統一であって、これらの循環はそれぞれ過程の連続性を表わしている別々の形態である。総循環は、資本のそれぞれの機能形態についてその独自な循環として表わされており、しかもこれらの循環のそれぞれが総過程の連続性の条件となる。一つの機能形態の循環が他のそれの条件となる。総過程が同時に再生産過程であり、したがってその各契機の循環でもあるということは、総生産過程のための、またことに社会的資本のための、一つの必然的な条件である。資本の別別な断片が次々に別々な段階と機能形態を通って行く。このことによって、それぞれの機能形態は、その形態にある資本部分は絶えず違っているとはいえ、他の機能形態と同時にそれ自身の循環を通る。資本の一部分、といっても絶えず入れ替わる一部分は、絶えず再生産され、商品資本として存在し、それは貨幣に転化する。もう一つの部分は貨幣資本として存在し、それは生産資本に転化する、第三の一部分は生産資本として存在し、それは商品資本に転化する。いつでも三つの形態のすべてが存在しているということは、まさにこの三つの段階を通る総資本の循環によって媒介されているのである。三つの循環の統一のなかにはじめて総過程の連続性は実現されている。社会的総資本はつねにこの連続性をもっているのであり、社会的総資本の過程はいつでもこの三つの循環の統一をもっているのである。

自分を増殖する価値としての資本は、階級関係を、賃労働としての労働の存在にもとづく一定の社会的性格を、含んでいるだけではない。それは、一つの運動であり、いろいろな段階を通る循環過程であって、この過程はそれ自身また循環過程の三つの違った形態を含んでいる。だから、資本は、ただ運動としてのみ理解できるのであって、静止しているものとしては理解できないのである。価値の独立化を単なる抽象と見る人々は、産業資本の運動が現実における[in actu] この抽象だということを忘れているのである。価値はここではいろいろな形態、いろいろな運動を通って行くのであって、この運動のなかで自分を増殖し拡大するのである。われわれはここではまず第一に単なる運動形態を問題にしているのだから、資本価値がその循環過程のなかで経験することがありうる革命は顧慮されないのである。しかし、明らかなことであるが、あらゆる価値革命にもかかわらず資本主義的生産が存在しているのは、また存在を続けることができるのは、ただ資本価値が増殖されるかぎりでのことであり、言い換えれば独立した価値としてその循環過程を描くかぎりでのことであり、したがって、ただ価値革命がどうにかして克服され埋め合わされるかぎりでのことである。資本の運動はここの産業資本家の行為として現われる。すなわち、彼が商品と労働との買い手、商品の売り手、生産資本家として機能するのであり、つまり彼の活動によって循環を媒介するのである。もし社会的資本価値が価値革命にさらされれば、彼の個別資本がこの価値運動の諸条件をみたすことができないためにこの革命に敗れて没落するということも起こりうる。価値革命がいっそう急性になり頻繁になるにつれて、独立化された価値の自動的な運動、不可抗力的な自然過程の力で作用する運動は、個々の資本化の予見や計算に反してますます威力を発揮し、正常な生産の進行はますます非正常な投機に従属するようになり、個別資本の生存にとっての危険はますます大きくなる。こうして、このような周期的な価値革命は、それが否定すると称するものを、すなわち価値が資本として経験し自分の運動によって維持し強調する独立化を、確証するのである。過程を進行しつつある資本のこのような変態列には、循環のなかで生じた資本の価値量の変化と最初の価値との不断の比較が含まれている。価値を形成する力にたいする価値の独立化が、G-A(労働力の買い)という行為で準備され、労働力の搾取としての生産過程で実現されるならば、このような価値の独立化はもはやこの循環のなかでは現われないのであって、この循環のなかでは貨幣も商品も生産要素も、ただ、過程を進行しつつある資本価値の次々に入れ替わる諸形態でしかないのであり、そこでは資本の過去の価値量が現在の変化した価値量と比較されるのである。

資本主義的生産様式がすでに発展しており、したがって優勢になっている時代には、流通段階 G-W(A+Pm)では Pm すなわち生産手段となる諸商品の一大部分はそれら自身が他人の機能中の商品資本であろう。だから、売り手の立場からは、W'-G' すなわち商品資本から貨幣資本への転化が行なわれるのである。しかし、これは無条件にいえることではない。逆である。産業資本が貨幣かまたは商品として機能している流通過程のなかでは、産業資本の循環は、貨幣資本としてのそれであろうと商品資本としてのそれであろうと、非常にさまざまな社会的生産様式 -といっても同時に商品生産であるかぎりでのそれーの商品流通と交錯している。…その商品が出てくる生産過程の性格は何でもかまわないのである。それらは商品として市場で機能し、商品として産業資本の循環にも産業資本によって担われる剰余価値の流通にもはいる。だから産業資本の流通過程を特色づけるものは、諸商品の出生地の多方面的性格であり、世界市場としての市場の存在である。

しかし、ここで二つのことを注意しておかなければならない。
 第一に。諸商品(Pm)は、G-Pm という行為がすめば、商品ではなくなって、生産資本 P としての機能形態にある産業資本の存在様式の一つになる。しかし、それと同時に商品の素性は消えてしまっている。諸商品は、ただ産業資本の存在形態として存在するだけで、産業資本に合体されている。とはいえ、それらの補填にはそれらの再生産が必要だということは変わりはないのであって、そのかぎりでは、資本主義的生産様式はその発展段階の外にある諸生産様式によって制約されているのである。しかし、資本主義的生産様式の傾向は、あらゆる生産をできるかぎり商品に変えることである。そのための主要手段は、まさに、あらゆる生産をこのように資本主義的生産様式の流通過程に引き入れることである。そして、発展した商品生産こそは資本主義的商品生産なのである。産業資本の侵入はどこでもこの転化を促進するのであり、それとともにまたすべての直接生産者の賃金労働者への転化をも促進するのである。
 第二に。産業資本の流通過程にはいる諸商品(可変資本が労働者に支払われてから労働力の再生産のために転換されてゆく必要生活手段もこれに属する)は、その出所、それが出てくる生産過程の社会的形態がなんであろうと、産業資本そのものにたいしては、すでに商品資本の形態で、商品取引資本または商品資本の形態で、相対する。そして、この商品資本は、その性質上、あらゆる生産様式の商品を包括しているのである。
 資本主義的生産様式は生産の大規模を前提するので、また必然的に販売の大規模をも前提する。つまり個々の消費者へのではなく、商人への販売を前提する。この消費者自身が生産的消費者であり、産業資本家であるかぎりでは、つまり、ある生産部門の産業資本が他の部門に生産手段を供給するかぎりでは、一人の産業資本家から他の多くの産業資本家への調節販売も(注文などの形で)行なわれる。そのかぎりでは、どの産業資本家も直接の販売者であり、彼自身が彼の商人である。あるいはまた商人に売るときにもやはりそうである。
 商人資本の機能としての商品取引は前提されており、それは資本主義的生産の発展につれてますます発展する。だから、われわれは、ときには資本主義的流通過程の個々の側面を説明するために商品取引を想定することがある。しかしこの流通過程の一般的な分析にさいしては、商人の介在しない直接販売を仮定する。なぜならば、商人の介在は運動のいろいろな契機をおおい隠すからである。

個別資本を自分のただ独立に機能しているだけの構成部分として含んでいる社会的総資本のいろいろな構成部分が-資本についても剰余価値についてもーどのようにして流通過程で互いに補填されるかは、資本流通の諸事象にも他のすべての商品流通にも共通な、商品流通上の単なる諸変態のからみ合いからは、明らかにならないのであって、別の研究方法を必要とするものである。それなのに、人々は、これまで、詳しく分析すればただすべての商品流通に共通な諸変態のからみ合いから借りてきただけの不明確な観念のほかにはなにも含んではいないきまり文句で満足してきたのである。

産業資本の循環過程の、したがってまた資本主義的生産の、だれにでもわかる特性の一つは、一方では生産資本の形成要素が商品市場から出てきて絶えず繰り返してそこから商品として買われなければならないという事情であり、他方では労働過程の生産物が商品として労働過程から出て行って絶えず繰り返して商品として売られなければならないという事情である。たとえば、低地スコットランドの近代的借地農業者を大陸の古風な小農民と比較してみればよい。前者は自分の全生産物を売るのであって、したがって生産物のすべての要素を、種子までも、市場で補填しなければならないのであるが、後者は自分の生産物の最大の部分を直接に消費し、できるだけ売買を少なくし、道具や衣類などをできるだけ自分で製作するのである。
 このようなことから、人々はこれまで現物経済と貨幣経済と信用経済とを社会的生産の三つの特徴的な経済的運動形態として対比してきた。第一に、この三つの形態は対等な発展段階を表わしていない。いわゆる信用経済は、それ自体、ただ貨幣経済の一つの形態でしかない。すなわち、この二つの名称が生産者たち自身のあいだの交易機能または交易様式を表わしているかぎりでは、そうである。発展した資本主義的生産では、貨幣経済はただ信用経済の基礎として現われるだけである。したがって、貨幣経済と信用経済とはただ資本主義的生産の別々な発展段階に対応しているだけであって、けっして現物経済に対する別々な独立な交易形態ではないのである。もしそうだとすれば、それと同じ権利で人々は現物経済の非常にさまざまな形態を他の二つのものと対等なものとして対比することができるであろう。
 第二に、貨幣経済、信用経済という範疇で人々が強調し区別的特徴としてあげるものは、経済そのもの、すなわち生産過程そのものではなくて、経済に対応するさまざまな生産担当者間または生産者間の交易様式なのだから、第一の範疇の場合にもそうでなければならないであろう。つまり、現物経済ではなく交換経済になってしまう。完全に閉鎖された現物経済、たとえばペルーのインカ国は、これらの範疇のどれにもはいらないことになるであろう。
 第三に、貨幣経済はすべての商品生産に共通であるし、また生産物は非常にさまざまな社会的生産組織体のなかで商品として現われる。だから、資本主義的生産を特徴づけるものは、ただ、生産物が取引物品として、商品として生産される範囲の広さ、したがってまた生産物自身の形成要素が、生産物の出てくる経済に再び取引物品として、商品としてはいっていかなければならない範疇の広さだけだということになるであろう。

じっさい、資本主義的生産は生産の一般的形態としての商品生産なのであるが、しかし、そうであるのは、そしてまたその発展につれてますますそうなるのは、ただ、ここでは労働がそれ自身商品として現われるからであり、労働者が労働を、すなわち自分の労働力の機能を売り、しかも、われわれが仮定するところでは、その再生産費によって規定される価値で売るからである。労働が賃労働になるその範囲で、生産者は産業資本家になる。それゆえ、資本主義的生産は、(したがってまた商品生産も)、農村の直接生産者もまた賃金労働者になったときにはじめてその十分な広さで現れるのである。資本家と賃金労働者との関係では、貨幣関係が、買い手と売り手との関係が、生産そのものに内在する関係になる。しかし、この関係は、その基礎から見れば、生産の社会的性格にもとづいているのであって、交易様式の社会的性格にもとづいているのではない。逆に後者が前者から生ずるのである。とにかく、生産様式の性格のうちにそれに対応する交易様式の基礎を見るのではなく、それとは逆に見るということは、小商売のことで頭がいっぱいになっているブルジョア的な視野にふさわしいことである。

資本家は、自分が流通から引き出すよりも少ない価値を貨幣の形で流通に投げ入れるのであるが、それは、自分が商品の形で流通から引き出したよりも多くの価値を商品の形で投げ入れるからである。彼がただ資本の人格化としてのみ、産業資本家としてのみ機能するかぎりでは、彼による商品価値の供給はつねに商品価値に対する彼の需要よりも大きい。…じっさい、彼は『自分が買ったよりも高く売ら」なければならないのであるが、彼がこれに成功するのは、ただ、自分が買った、価値がより小さいために価格がよりやすい商品を、資本主義的生産過程の媒介によって、価値がより大きい、したがって価格がより高い商品に転化させたからにほかならない。彼がより高く売るのは、自分の商品の価値よりも高く売るからではなく、自分の商品の生産要素の価値総額よりも大きい価値のある商品を売るからである。

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