摘要ノート「資本論Ⅱ」(18)

第二篇 資本の回転

第十章  固定資本と流動資本とに関する諸学説
重農学派とアダム・スミス

ケネーの場合には、固定資本と流動資本との区別は、原前貸と年前貸として現われる。彼はこの区別を正しく生産資本すなわち直接的生産過程に合体された資本のなかでの区別として述べている。彼にとっては、農業に充用される資本、つまり借地農業者の資本が唯一の現実に生産的な資本と考えられるのだから、この区別もただ借地農業者の資本に現われるだけである。このことからはまた、資本の一部分の回転期間は一年であり、他の部分の回転期間は一年より長いということも出てくる。ついでに言えば、重農学派は、発展の途上では、この区別を他の種類の資本にも、産業資本一般にも、転用している。社会にとっては年々の前貸と多年にわたる前貸との区別はやはり重要であって、多くの経済学者たちが、アダム・スミス以後にさえも、この規定に立ち帰っている。

前貸の二つの種類の区別は、前貸しされた貨幣が生産資本の諸要素に転化したときにはじめて生ずる。それは、ただ生産資本のなかだけでの区別である。だから、貨幣を原前貸とか年前貸とか考えることは、ケネーには思いもよらないことなのである。生産のための前貸としては-すなわち生産資本としては-原前貸も年前貸も両方とも貨幣に対立しており、また市場にある諸商品にも対立している。さらに、生産資本のこの二つの要素の区別は、ケネーにあっては、正当に、それらが完成生産物の価値に入っていく仕方の相違に還元され、したがって、それらの価値が生産物価値といっしょに流通させられる仕方の相違に、したがってまた、一方の価値は年々全部補填されるが、他方の価値はもっと長い期間に少しずつ補填されて行くというそれらの補填または再生産の仕方の相違に還元されるのである。
 A・スミスによってなされる唯一の前進は、これらの範疇の一般化である。それらは、スミスにあっては、もはや資本の特殊な一形態である借地農業者資本に関するものではなく、生産資本のどの形態にも関するものである。その当然の帰結として、農業から持ってきた年々の回転と多年にわたる回転との区別に代わって時間の違う回転の一般的な区別が現われることになり、したがって固定資本の一回転はいつでも流動資本の一回よりも多い回転を包括するわけであって、その場合、流動資本のこれらの回転の期間はどれだけであろうと、一年であろうと、それよりも長かろうと短かろうと、かまわないのである。こうして、スミスでは年前貸は流動資本に転化し、原前貸は固定資本に転化するのである。しかし、彼の前進は諸範疇のこのような一般化だけに限られる。詳論は遠くケネーに及ばないのである。
A・スミスが流動資本として規定しているものは、私が流通資本と呼ぼうとするもの、すなわち、流通過程すなわち交換による形態変換(素材変換および持ち手変換)に属する形態にある資本であり、つまり、生産過程に属する資本形態すなわち生産資本の形態に対立する商品資本と貨幣資本である。これらの資本形態は、産業資本家が自分の資本分割する特殊な種類ではなく、同じ前貸資本価値がその生涯のなかで次々に絶えず繰り返しとっては捨てるいろいろな形態なのである。これをA・スミスは-そしてそれは重農学派に比べて一つの大きな退歩なのであるが-、資本価値の流通のなかで、すなわちそれが次々に取る諸形態を通してのその循環のなかで、資本価値が生産資本の形態にあるあいだに生ずる形態的区別と混同しているのである。しかも、この形態的区別は、資産資本のいろいろな要素が価値形成過程に参加して自分の価値を生産物に移す仕方の相違から生ずるのである。われわれは、このような、一方では生産資本と流通部面にある資本(商品資本および貨幣資本)との、他方では固定資本と流動資本との、根本的な混同の結果を、もっとあとで見るであろう。固定資本として前貸しされた資本価値も、流動資本として前貸しされた資本価値と同様に、生産物によって流通させられるのであり、また前者も後者と同様に商品資本の流通によって貨幣資本に転化するのである。区別は、ただ、前者の価値は少しずつ流通し、したがってまた長短の期間にわたって少しずつ補填され現物形態で再生産されなければならない、ということから生ずるだけである。

資本のうちの労賃に投ぜられた部分が生産資本の流動的部分に属し、この流動性を、生産資本の固定的成分に対立して、原料などのような対象的な生産物形成者の一部分と共通にもっているということは、資本のうちのこの可変部分が不変部分に対立して価値増殖過程で演ずる役割とは絶対になんの関係もないのである。それは、ただ、どのようにして前貸資本価値のこの部分が流通を介して生産物の価値から補填され、更新され、したがって再生産されなければならないかということに関係があるだけである。労働力の反復的購買は流通過程に属する。ところが労働力に投ぜられた価値は、生産過程のなかではじめて(労働者にとってではなく資本家にとって)一定の不変量からある可変量に転化するのであり、また、この転化によっておよそはじめて前貸価値は資本価値に資本に、自分を増殖する価値に、転化させられるのである。ところが、スミスにおけるように、労働力に投ぜられた価値が生産資本の流動的成分として規定されるのではなく、労働者の生活手段に投下された価値がそう規定されるということになれば、それによって、可変資本と不変資本との区別の理解は不可能にされ、したがって資本主義的生産過程一般の理解も不可能にされるのである。対象的な生産物形成者に投下された不変的な資本に対立して可変的な資本であるというこの資本部分の規定は、労働力に投ぜられた資本部分は回転に関しては生産資本の流動的部分に属するという規定のもとに葬られてしまう。この埋葬は、労働力に変わって労働者の生活手段が生産資本の要素として数えられることによって、完全にされる。労働力の価値が貨幣で前貸しされるか、それとも直接に生活手段で前貸しされるかは、どちらかでもかまわない。もちろん、あとのほうの場合は資本主義的生産の基礎の上ではただ例外でしかありえないのであるが。

このようにA・スミスによって流動資本という規定が労働力に投ぜられた資本価値にとって決定的なものとして固定されたということ-この重農学派的前提を欠いた重農学派的規定-によって、スミスは、幸いにも、彼の後継者たちが労働力に投下された資本部分を可変資本として認識することを不可能にした。他の箇所で彼自身が与えたもっと深い正しい展開は勝利を得なかったが、彼がやったこの突進は勝利を得た。じっさい、その後の著者たちはさらに前進した。彼らは、流動的な-固定的にたいして-資本であることを、労働力に投下された資本部分の決定的な規定にしただけではない。彼らは、労働者のための生活手段に投下されるということを、流動資本の本質的な規定にしたのである。これには当然次のような説が結びついた。この説によれば、必要な生活手段から成っている労働財源は一つの与えられた大きさであって、この大きさは、一方では社会的生産物のなかの労働者の分け前の限界を物理的に画するが、他方ではまたその買い入れのためにその全体が支出されなければならないのである。

before 目次 next