G-W … P … W' - G'
G-W ( A & Pm ) … P … W' (W+w)-G' (G+g)
ここでは資本は、互いに関連し制約し合う一連の諸転化、すなわちそれぞれが一つの総過程の諸局面または諸段階をなしている一連の諸変態を通る価値として、現われる。これらの段階のうち二つは流通部面に属し、一つは生産部面に属する。これらの諸段階のそれぞれで資本価値は違った姿をしており、それぞれの姿に別々の特殊な機能が対応している。この運動のなかで前貸価値は、ただ保存されるだけでなく、成長し、その量をふやす。最後に、結びの段階では、前貸価値は、総過程の出発点で現われたときと同じ形態に帰る。それゆえ、この総過程は循環過程なのである。
資本価値がその流通段階でとる二つの形態は、貨幣資本と商品資本という形態である。生産段階に属するその形態は、生産資本という形態である。その総循環の経過中にこれらの形態をとっては捨て、それぞれの形態に対応する機能を行なう資本は、産業資本である。 -ここで産業と言うのは、資本主義的に経営されるすべての生産部門を包括する意味で言うのである。だからここにいう貨幣資本、商品資本、生産資本は、独立な資本種類、すなわち、それらの機能が同様に独立な互いに分離された諸事業部門の内容をなしているような独立な資本種類を表わしているのではない。これらの資本はここではただ産業資本の特殊な諸機能形態を表わしているだけで、産業資本はこれらの機能形態を三つとも次々にとって行くのである。
一般的定式では、P の生産物は、生産資本の諸要素とは物質的に違った物とみなされる。すなわち、生産過程から分泌された存在をもっており、生産要素の使用形態とは違った使用形態をもっている対象とみなされる。そして、生産過程の結果が物として現れる場合にはいつもそうなのであって、生産物の一部分が、新たに繰り返される生産に再び要素としてはいって行く場合にも、やはりそうである。…ところが、独立の産業部門でも、その生産過程の生産物が新たな対象的生産物ではなく商品ではないような産業部門がある。そのなかで経済的に重要なのは交通業だけであるが、それは、商品や人間のための本来の運輸業であることもあれば、単に報道や書信や電信などの伝達であることもある。
ところで、運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸過程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。人や商品は運輸手段といっしょに旅をする。そして、運輸手段の度、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産手段と同時にしか消費されえない。それは、この過程とは別な使用物として存在するのではない。すなわち、生産されてからはじめて取引物品として機能し商品として流通するような使用物として存在するのではない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じにその有用効果のために消費された生産要素(労働力と生産手段)の価値・プラス・運輸業に従事する労働者の剰余労働がつくりだした剰余価値によって規定されている。この有用効果は、その消費についても、他の商品とまったく同じである。それが個人的に消費されれば、それは消費と同時になくなってしまう。それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される。だから、運輸業についての定式は、G-W( A & Pm )…P-G' となるであろう。なぜならば、ここでは生産過程から分離されうる生産物がではなく、生産過程そのものが代価を支払われ消費されるのだからである。つまり、この定式は貴金属生産の定式とほとんどまったく同じ形式を持っているのであり、ただ、運輸業では、G' は生産過程で生みだされた有用効果の転化形態であって、この過程で生みだされてそこから突き出された金銀の現物形態ではないだけである。
産業資本は、資本の存在様式のうち、剰余価値または剰余生産物の取得だけでなく同時にその創造も資本の機能であるところの唯一の存在様式である。だから、それは生産の資本主義的性格を必然的にする。産業資本の存在は、資本家と賃金労働者との階級対立の存在を含んでいる。産業資本が社会的生産を支配して行くのにつれて、労働過程の技術と社会的組織とが変革されて行き、したがってまた社会の経済的・歴史的な型が変革されて行く。産業資本に先立って、すでに過ぎ去ったかまたはもはや没落し通ある社会的生産状態のなかで出現した別の種類の資本は、産業資本に従属させられて自分の諸機能の機構を産業資本に適応するように変えられるだけでなく、もはやただ産業資本を基礎としてのみ運動するようになり、したがって、それら自身のこの基礎と生死存亡を共にするようになる。貨幣資本と商品資本は、それらの機能によって独自の事業部門の担い手として産業資本と並んで現われるかぎりでは、もはやただ、産業資本が流通部面の中で取ったり捨てたりするいろいろな機能形態の、社会的分業によって独立化され一面的に形成された存在様式であるにすぎない。
循環 G…G' は、一方では一般的な商品流通とからみ合っており、そこから出てそこにはいり、その一部分をなしている。他方では、この循環は個別資本家にとっては資本価値の特有な独立な運動を形成しており、この運動は一部分では一般的な商品流通の中で行なわれ、一部分はその外で行なわれるが、しかしいつでもその独立な性格を保持している。それは次のような事情によるものである。第一に、流通部面で行なわれるこの運動の二つの段階 G-W と W'-G' とは、資本運動の諸段階として機能的に規定された性格を持っている。すなわち、G-W では W が労働力と生産手段として素材的に規定されており、W'-G' では資本価値が剰余価値をプラスされて実現される。第二に、生産過程Pは生産的消費を含んでいる。第三に、貨幣が運動の出発点に帰るということは、G…G' という運動を、それ自身で完結する循環運動にする。
こうして、一方では、各個別資本はその流通の前半と後半 G-W と W'-G' とのどちらでも一般的な商品流通の一つの動因になっていて、この流通のなかで貨幣か商品かのどちらかとして機能し連結されており、したがってまた、それ自身、商品世界の一般的な変態列のなかで一つの環をなしている。他方では、各個別資本は一般的な流通のなかでそれ自身の独立な循環を描き、この循環のなかで生産部面は一つの通過段階をなしていて、各資本は出発したときと同じ形態でその出発点に帰る。同時に、各個別資本は、生産過程でのその現実の変態を含むそれ自身の循環のなかでその価値の大きさを変える。それは、単に貨幣価値として帰ってくるだけでなく、増大し、成長した貨幣価値として帰ってくるのである。
最後に、G-W…P…W' - G' を後に研究される他の諸形態と並ぶ資本の循環過程の特殊な形態として見れば、その特徴は次の諸点に現われる。
(1) この定式が貨幣資本の循環として現われるのは、貨幣形態にある産業資本が、貨幣資本として、その総過程の出発点と帰着点とをなしているからである。この定式そのものが、貨幣はここでは貨幣として支出されるのではなく、ただ前貸しされるだけであり、したがってただ資本の貨幣形態、貨幣資本でしかないということを表わしているのである。それは、さらに、使用価値がではなく交換価値が運動の規定的な自己目的だということを表わしている。価値の貨幣姿態が価値の独立な手でつかめる現象形態であるからこそ、現実の貨幣を出発点とし終点とする流通形態 G…G' は,金儲けを、この資本主義的生産の推進的動機を、最も簡単明瞭に表わしているのである。生産過程は、ただ、金もうけのためには避けられない中間の環として、そのための必要悪として、現われるだけである。(それだから、資本主義的生産様式のもとにあるどの国民も、周期的に一つの眩惑に襲われて、生産過程の媒介なしに金もうけをなしとげようとする)
(2) 生産段階、Pの機能は、この循環のなかで、G-W・・W'-G'という流通の二つの段階の中断をなしているが、この中断はまたただ単純な流通G-W-G'の媒介をなしているだけである。生産過程は、この循環過程の形態そのもののなかで、形態的に、また明言的に、資本主義的生産様式のなかで生産過程がそれであるとおりのものとして、すなわち前貸価値の増殖のための単なる手段として、現われているのであり、したがって、致福そのものが生産の自己目的として現われているのである。
(3) 定式G…G'の特徴として現われるのは、一方では、資本価値が出発点をなし、増殖された資本価値が終着点をなしているということ、したがって、資本価値の前貸が全操作の手段として現われ、増殖された資本価値がその目的として現われるということであり、他方では、この関係が貨幣形態すなわち独立な価値形態で表わされ、したがって、貨幣資本が貨幣を生む貨幣として表わされているということである。