摘要ノート「資本論Ⅱ」(3)

第一篇 資本の諸変態とその循環

第一章 貨幣資本の循環

第三節 第三段階 W’-G’

商品は、すでに価値増殖された資本価値の、直接に生産過程そのものから生じた機能的存在形態として、商品資本になる。資本は、商品形態にあっては商品機能を行なわなければならない。資本を構成する諸物品は、はじめから市場のため生産されたもので、売られなければならず、貨幣に転化されなければならない。つまり W-G という運動を通らなければならない。

ある紡績工場での例解
前貸資本  422ポンド・スターリング(8440ポンドの綿糸に相当)
 内訳  不変資本 372ポンド・スターリング
     可変資本 50ポンド・スターリング
剰余価値  78ポンド・スターリング(1560ポンドの綿糸に相当)
生産物   500ポンド・スターリング(一万ポンドの綿糸)

生産資本 Pの価値はWに等しい。つまり、G-Wの段階では売り手の手にある諸商品としてこの資本家に相対していた生産資本形成要素の価値に等しい。
だが、第二に、…一万ポンドの糸の価値表現としての Wは、WプラスΔW、すなわちWプラスWの増加分(78ポンド・スターリング)に等しい。この増加分は原価値Wが今とっているのと同じ商品形態にあるのだから、これを wと呼ぶことにしよう。だから一万ポンドの糸の価値=500ポンド・スターリングはW+wはW' である。Wを、一万ポンドの糸の価値表現として、W'にするものは、その絶対的価値量(500ポンド・スターリング)ではない。なぜならば、この価値量は、ほかのある商品量の価値表現としてすべての他のWと同様に、その商品量に対象化されている労働の量によって規定されているからである。WをW'にするものは、その相対的価値量、すなわち、その生産に消費された資本 Pの価値と比べてのその価値量である。この資本価値は、生産資本によってもたらされた剰余価値をプラスされて、Wの価値量に含まれている。Wの価値は、この剰余価値 wだけこの資本価値を超えて大きくなっている。一万ポンドの糸は、価値増殖されて剰余価値でふくらまされた資本価値の担い手である。そして、そうであるのは、資本主義的生産過程の生産物としてである。
W'は一つの価値関係を表わしている。すなわち、商品生産物の価値とその生産に支出された資本の価値との関係を、、つまり、商品生産物の価値が資本価値と剰余価値とから成っているということを、表わしている。一万ポンドの糸が商品資本W'であるのは、ただ生産資本Pの転化した形態としてのみのことでありしたがって、さしあたりはただこの個別資本の循環のなかだけに存在する関連のなかでのみのことであり、言い換えれば、自分の資本で糸を生産した資本家にとってのみのことである。価値の担い手としての一万ポンドの糸を商品資本にするものは、いわばただ内的な関係でしかないのであって、けっして外的な関係ではないのである。この糸が資本主義的な母斑をつけているのは、その価値の絶対量によってではなく、その価値の相対量によって、すなわち、この糸に含まれている生産資本が商品に転化する前にもっていた価値量に比べてのこの糸の価値量によって、である。それゆえ、もしこの一万ポンドの糸が500ポンド・スターリングというその価値どおりに売られるならば、この流通行為は、それ自体として見れば、W-Gであり、ある不変な価値が商品形態から貨幣形態に転化するだけのことである。しかし、一つの個別資本の循環のなかの特殊な段階としては、この同じ行為が、商品によって担われた資本価値422ポンド・スターリング・プラス・商品によって担われた剰余価値78ポンド・スターリングの実現であり、つまり、W'ーG'であり、商品形態から貨幣形態への商品資本の転化なのである。

ところで、W'の機能は、すべての商品生産物の機能である。すなわち、貨幣に転化することであり、売られることであり、流通段階 W-Gを通ることである。いま価値増殖された資本が商品資本の形態のままになっていて、市場に滞留していろあいだは、生産過程は停止している。この資本は、生産物形成者としても価値形成者としても働いていない。資本がその商品形態を突き放してその貨幣形態をとる速さの相違にしたがって、すなわち売られる速さの相違にしたがって、同じ資本価値が非常に違う程度で生産物形成者および価値形成者として役だち、再生産の規模が拡大されたり縮小されたりするであろう。すでに第一部で明らかにしたように、与えられた一資本の作用度は、その資本自身の価値量にはある程度までかかわりのない、生産過程の諸力によって、制約されている。ここで示されるのは、流通過程が、資本の作用度すなわちその膨張収縮の新たな、資本の価値量には依存しない諸力を運動させるということである。

商品量 W'は、価値増殖された資本の担い手として、さらにその全体が変態 W'-G'を経なければならない。ここでは、売られるものの量が本質的な規定になる。一つ一つの商品はただ総量の構成部分の役を演ずるだけである。500ポンド・スターリングの価値が一万ポンドの糸のなかに存在している。資本家が7440ポンドだけをその価値どおりに372ポンド・スターリングで売ることに成功すれば、彼は自分の不変資本の価値、支出された生産手段の価値だけを補填したことになる。8440ポンドを売れば、前貸総資本の価値量だけを補填したことになる。彼は、剰余価値を実現するためには、もっと売らなければならない。そして、78ポンド・スターリング(1560ポンドの糸)という剰余価値を全部実現するためには、一万ポンドの糸全部売らなければならない。だから、彼は500ポンド・スターリングの貨幣ではただ売られた商品の等価を受け取るだけである。流通のなかでの彼の取引は単純な W-Gである。もし彼が自分の労働者たちに50ポンドではなく64ポンドの賃金を支払ったとすれば、彼の剰余価値は78ポンドではなく64ポンド、搾取度は156%でなくて100%にしかならないであろう。しかし、彼の糸の価値は相変らず元のままであろう。ただ、そのいろいろな部分の割合が変わっているだけであろう。流通行為 W-G は相変らず一万ポンドの糸を500ポンド・スターリングというその価値どおりに売ることであろう。

 W'=W+w (=422ポンド+78ポンド) -WはPすなわち生産資本の価値に等しい。そして、これは、G-W すなわち生産要素の購入で前貸しされたGの価値に等しい。この商品量が価値どおりに売られるならば、Wは422ポンド・スターリングに等しく、Wは78ポンド・スターリングに、すなわち1560ポンドの糸という剰余生産物の価値に等しい。wが貨幣に表現されたものを g とすれば、W'-G'は(W+w)-(G+g)となり、したがって、G-W…P…W'-G' という循環は詳しく展開された形態では、G-W (A&Pm) …P…(W+w) - (G+g) となる。

第一段階では、資本家は使用財を本来の商品市場と労働市場とから引き上げる。第三段階では、彼は商品を投げ返す、といっても、ただ一方の市場だけに、本来の商品市場だけに、である。しかし、彼は、自分が最初に市場に投げ入れたよりも大きな価値を自分の商品によって再び市場からひきあげるとすれば、それは、彼が最初に引き上げたよりも大きい商品価値を投げ入れるからに他ならない。彼は価値 G を投げ入れて、等価 W を引きあげた。今度は彼は W+w を投げ入れて、等価 G+g を引きあげる。…ただこの過程の生産物としてのみ、商品量は商品資本なのであり増殖された資本価値の担い手なのである。W'-G' の遂行によって、前貸資本価値も剰余価値も実現される。しかし、同じ流通過程 W'-G' でも、それが資本価値と剰余価値とのそれぞれにとってそれぞれの流通の違った一段階を表わすかぎりでは、すなわちそれらが流通のなかで通る変態列のなかの違った一区切りを表わすかぎりでは、資本価値の場合と剰余価値の場合とでは違っている。剰余価値 w は生産過程のなかではじめてこの世に生まれてきた。だから、それははじめて商品市場に、しかも商品形態で現れるのである。商品形態は w の最初の流通形態であり、したがって w-g という行為もwの最初の流通行為でまたはその最初の変態であって、この変態はまだこれから反対の流通行為または逆の変態 g-w によって補われなければならないのである。

資本価値 W が同じ流通行為 W'-G' で行なう流通はこれと違っていて、この流通行為は W にとっては流通行為W-Gであり、ここでは W は P に等しく,最初に前貸しされた G に等しい。この資本価値は、その最初の流通行為を、G として、貨幣資本として、開始した。そして、W-G という行為によって同じ形態に帰る。こうして、それは、(1)G-W と(2)W-G という二つの反対の流通段階を通って、再び、同じ循環過程を繰り返し始めることのできる形態をとっている。剰余価値にとっては商品形態から貨幣形態への最初の転化であるものが、資本価値にとってはその最初の貨幣形態への復帰または再転化なのである。…だから、剰余価値から分離して考えた資本価値の流通過程の両段階だけを見れば、この資本価値は(1)G-W と (2)W-G を通り,その場合第二の Wは第一の W に比べて使用形態は変わっているが、価値は同じである。つまり、資本価値は G-W-G を通るのであって、この流通形態は、貨幣から商品への転化と商品から貨幣への転化という反対の方向の、商品の二度の場所変換によって、貨幣として前貸しされた価値の貨幣形態への復帰すなわちそれの貨幣への再転化を必然的にするのである。
 貨幣で前貸しされた資本価値にとっては第二の結びの変態であり貨幣形態への復帰であるその同じ流通行為 W'-G' が、同時に商品資本によっていっしょに担われ商品資本の貨幣形態への転換によっていっしょに実現される剰余価値にとっては、第一の変態、商品形態から貨幣形態への転化、W-G、第一の流通段階なのである。

こうして、過程の終わりには再び資本価値はそれが過程にはいったときと同じ形態にあり、したがって、また繰り返して貨幣資本として過程を開始し通過することができるのである。家庭の出発形態も終結形態も貨幣資本(G)の形態であるからこそ、循環過程のこの形態はわれわれによって貨幣資本の循環と呼ばれるのである。前貸しされた価値の形態がではなく、ただその大きさだけが過程の終わりでは変化しているのである。…G+gは、一定の大きさの、貨幣額以外のなにものでもない。しかし、資本の循環の結果としては、商品資本が実現されたものとしては、この貨幣額は資本価値と剰余価値とを含んでいる。それらは今では別々に並んでいる。それらの実現が両者のそれぞれに独立の貨幣形態を与えたのである。

G' では資本は再びその最初の形態 G に、その貨幣形態に、帰っている。しかし、この形態は、それが資本として実現されている形態である。第一に、そこには量的な差がある。この差は、G・・・G' に、循環の両極の量的相違に、表わされており、ここでは循環の運動そのものはただ点線で暗示されているだけである。G' は G よりも大きく、G'・マイナス・G はMすなわち剰余価値に等しい。 -しかし、この循環G…G'の結果としては今ではただ G' があるだけである。それは生産物であって、この生産物ではその形成過程は消えてしまっている。G'は今ではそれ自体として独立に、それを生みだした運動にかかわりなく存在している。運動は過ぎ去っており、それに代わってG'がそこにあるのである。
 しかし、G+g としての G'、422ポンド・スターリングの前貸資本・プラス・その増加分78ポンド・スターリングとしての500ポンド・スターリングは、同時に一つの質的な関係を表わしている。といっても、この質的関係そのものが、ただ、一つの同名の総額の諸部分の関係としてのみ、つまり量的な関係としてのみ、存在するのであるが。いま再びその最初の形態(422ポンド・スターリング)で存在する前貸資本 G は、今では実現された資本として存在する。それはただ保存されているだけではなく、また資本として実現されてもいる。というのは、それは資本としてg(78ポンド・スターリング)から区別されるからであって、この g にたいする G の関係は、自分の増殖分、自分の果実,G 自身が生みだした増加分にたいする関係である。G が資本として実現されているというのは、価値を生みだした価値として実現されているからである。G' は資本関係として存在する。G はもはや単なる貨幣として現われるのではなく、明らかに貨幣資本として定立されている。すなわち、自分を増殖した価値として、したがってまた自分を増殖し自分がもっているよりも大きい価値を生みだすという属性をもつ価値として、表わされている。G は、G' のもう一つの部分にたいする関係によって、資本として定立されている。そして、G' のもう一つの部分とは、G によって定立されたもの,G を原因としてひき起こされたもの,G を原因とする結果である。こうして、G' は、それ自身のうちで分化される価値総額、それ自身のうちで機能的(概念的)に区別される価値総額、資本関係を表わす価値総額として、現われるのである。

しかし、資本関係は、ただ結果として、この結果を生みだす過程の媒介なしに、表わされているだけである。いろいろな価値部分は、それらがいろいろな物品すなわち具体的なものの価値として、つまりいろいろな使用形態にある価値として、したがっていろいろな商品体の価値として現われるのでなければ、、いろいろな価値部分として互いに質的に区別されるものではない -このような区別は、単なる価値部分としてのそれら自体からは生じない区別である。貨幣では、いろいろな商品の相違はすべて消えてしまっている。なぜならば、貨幣こそは諸商品のすべてに共通な等価形態だからである。500ポンド・スターリングという貨幣総額は、すべて一ポンドという同名の諸要素から成っている。この貨幣総額の単純な存在では、その由来の媒介は消えていて、いろいろな資本成分が生産過程でもっている種差の痕跡も残らずなくなっているので、もはや区別はただ422ポンド・スターリングの前貸資本に等しい元本と78ポンド・スターリングの超過価値額という概念的形態にあるだけである。…それゆえ、元本も増加額も、資本も剰余額も、総額の分数として表わされることができるのである。…いまこの過程の終わりで実現された資本がその貨幣表現で現われるのは、資本関係の無概念的表現なのである。 もちろん、このことはW' (W+w)にもあてはまる。しかしそこには次のような違いがある。すなわち、W'でもWとwとは同じ等質の商品量の比例配分的価値部分にすぎないとはいえ、W'は自分がその直接の生産物として出てくる自分の起源Pを指示しているのに、直接に流通から生まれてくる形態としてのG'では、Pとの直接の関係は消え去っているのである。

自分を G' として表わすことは、貨幣資本の積極的な機能ではない。G' としてそれ自身を表わすことは、むしろ W' の機能である。…G' に含まれている資本関係すなわち G' のうちの資本価値としての一方の部分がその価値増加分としての他方の部分に対してもっている関係は、循環 G…G' の不断の反復のなかで G' が資本流通と剰余価値流通との二つの流通に分かれ、したがって二つの部分がただ量的にだけではなく質的にも違う機能を行い、G が g とは別な機能を行なうかぎりでは、たしかに機能的な意義をもつことになる。しかし、それ自体として見れば,G…G' という形態は資本家の消費を含んではいないのであって、明言的にはただ自己増殖と蓄積とを、それもさしあたりは絶えず繰り返して前貸しされる貨幣資本の周期的増大に表わされるかぎりでの蓄積を、含んでいるだけなのである。

G'=G+g は、資本の無概念的形態であるとはいえ、同時に、はじめて、実現された形態にある貨幣資本であり、貨幣を生みだした貨幣としての貨幣資本である。しかし、ここでは第一段階 G-W(A&Pm) での貨幣資本の機能からは区別されなければならない。G はこの第一段階では貨幣として流通する。それが貨幣資本として機能するのは、ただ、それが貨幣状態にあるのでなければ貨幣機能を行なうことができず、商品としてそれに相対する P の諸要素すなわち A と Pm とに転換されることができないからでしかない。この流通行為では、それはただ貨幣として機能するだけである。しかし、この行為が過程進行中の資本価値の第一段階であるからこそ、それはまた同時に、そこで買われる商品 A と Pm との独自な使用形態のおかげで貨幣資本の機能なのである。これに反して、資本価値 G とそれによって生みだされた剰余価値 g とから成っていり G' は、増殖された資本価値を、資本の総循環過程の目的と結果とを、この過程の機能を、表わしている。G' がこの結果を貨幣形態で表わし、実現された貨幣資本として表わすということは、G' が資本の貨幣形態であり貨幣資本であるということから生ずるのではなく、逆に、それが貨幣資本であり貨幣形態にある資本であるということ、資本がこの形態で過程を始めたということ、つまり貨幣形態で前貸しされたということから生ずるのである。われわれが見たように、貨幣形態への再転化は、商品資本 W' の機能であって、貨幣資本の機能ではない。しかし、G' と G との差額について言えば、この差額(g)はただ W の増加分 w の貨幣形態しかないG'=G+g であるのは、ただ W'=W+w だったからでしかない。だから、W' ではこの差額も、資本価値とそれによって生みだされた剰余価値との関係も、この両者が G' に転化する前から存在し実現されているのである。すなわち、この G' という貨幣額のなかで二つの価値部分が独立に相対して現われ、したがってまたそれぞれ独立な別々の機能に充用されうるような形になる前から、すでに存在し表現されているのである。

 G' はただ W' の実現の結果でしかない。W' も G' も両方とも、増殖された資本価値の別々の形態、その商品形態と貨幣形態であるだけであって、この増殖された資本価値だということは、両方に共通である。それらは両方とも実現された資本である。なぜならば、そこには資本価値そのものが、それとは違った、それによって得られた果実としての剰余価値といっしょに存在しているからである。といっても、この関係は、ただある貨幣額またはある商品価値の二つの部分の関係の無概念的な形態で表わされているだけではあるが。しかし、資本によって生産された剰余価値との関係のなかでの、またそれと区別されるものとしての、資本の表現としては、つまり増殖された価値の表現としては、G' も W' も同じものであり,同じものを表わしているのでであり、ただそれを違った形態で表わしているだけである。それらは、貨幣資本と商品資本としてではなく、貨幣と商品として、区別されるのである。それらが増殖された価値を表わし、資本として実証された資本を表わしているかぎりでは、それらはただ生産資本の機能すなわち資本価値が価値を生むための唯一の機能の結果を表わしているだけである。それらの共通点は、それらが両方とも、貨幣資本も商品資本も、資本の存在様式だということである。一方は貨幣形態にある資本であり、他方は商品形態にある資本である。それゆえ、それらを区別するそれぞれの独自な機能は、貨幣機能と商品機能との違い以外のものではありえないのである。商品資本は、資本主義的生産過程の直接の生産物として、このようなその起源を思い起こさせるのであり、したがって、その形態において貨幣資本よりもより多く合理的でより少なく無概念的である。というのは、貨幣資本ではこの過程のどんな痕跡も消えているからであって、それは、ちょうど、およそ貨幣では商品の特殊な使用形態はすべて消えてしまっているのと同じことである。それゆえ、G' そのものが商品資本として機能する場合、すなわち G' が一つの生産過程の直接の生産物であってこの生産物の転化形態ではない場合にかぎって、その奇異な形態はなくなるのである。 -つまり貨幣材料そのものの生産ではそれがなくなるのである。たとえば、金生産のついては定式は G -W (A & Pm)…G'(G+g)となるであろう。ここでは G' が商品生産物の役割を演じている。というのは、P は、最初の G すなわち貨幣資本として金の生産諸要素のために前貸しされたよりも多くの金を供給するからである。だから、この場合には、ある貨幣額の一つの部分が同じ貨幣額のもう一つの部分の母として現われるところの G…G' という表現の不合理なものが消え去っているのである。

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