摘要ノート「資本論」(51)

第23章 資本主義的蓄積の一般的法則

第二節 蓄積およびそれに伴う集積の
進行途上での可変資本の相対的減少

労働の社会的生産度は、一人の労働者が与えられた時間に労働力の同じ緊張度で生産物に転化させる生産手段の相対的な量的規模に表わされる。生産手段に合体される労働力に比べての生産手段の量的規模の増大は、労働の生産性の増大を表わしている。だから、労働の生産性の増加は、その労働量によって動かされる生産手段量に比べての労働量の減少に、または労働過程の客体的諸要因に比べてその主体的要因の大きさの減少に、現われるのである。このような、資本の技術的構成の変化、すなわち、生産手段の量がそれに生命を与える労働力の量に比べて増大するということは、資本の価値構成に、資本価値の可変成分を犠牲としての不変成分の増大に、反映する。…消費される生産手段の価値すなわち不変資本部分だけを代表する価格要素の相対的な大きさは、蓄積の進展に正比例するであろうし、他方の、労働の代価を支払う価格要素、すなわち可変資本部分を代表する相対的な大きさは、一般に、蓄積の進展に反比例するであろう。

第四編で明らかにしたように、労働の社会的生産力の発展は大規模の協業を前提し、ただこの前提のもとでのみ労働の分割と結合とを組織することができ、生産手段を大量的集積によって節約することができ、素材から見ても共同的にしか使用されえない労働手段、たとえば機械体系などを生み出すことができ、巨大な自然力に生産への奉仕を強制することができ、生産過程を科学の技術的応用に転化させることができる。…商品生産の基礎の上ではかの前提は、ただ個別資本の増大によってのみ、または、ただ社会の生産手段と生活手段が資本化の私有物に転化されて行くのにつれて、実現される。商品生産という地盤は、大規模な生産を、ただ資本主義的形態においてのみになうことができる。したがって、ここの商品生産者の手のなかでのある程度の資本の蓄積が、独自な資本主義的生産様式の前提になるのである。それゆえ、われわれも、手工業から資本主義的経営への移行にさいしては、このような蓄積を想定しなければならなかったのである。それは本源的蓄積とよばれてもよい。なぜならば、それは、独自な資本主義的生産の歴史的な結果ではなく、その歴史的な基礎だからである。このような蓄積そのものがどうして生ずるかは、ここではまだ研究しなくてもよい。とにかくそれが出発点なのである。しかし、この基礎の上で成長する所の、労働の社会的生産力を増大させるための方法は、すべて、同時にまた剰余価値または剰余生産物生産を増加させる方法であり、この剰余生産物はそれ自身また蓄積の形成要素である。だから、この方法は、同時に、資本による資本の生産の方法、または資本の加速的蓄積の方法である。剰余価値から資本への連続的な再転化は、生産過程にはいる資本の量が増大して行くこととして現われる。この増大はまた、生産規模の拡大の基礎となり、それに伴う労働の生産力の増大方法の基礎となり、剰余価値の加速的生産の基礎となる。こうして、ある程度の資本蓄積が独自な資本主義的生産様式の条件として現われるとすれば、後者はまた反作用的に資本の加速的蓄積の原因になるのである。それだから、資本の蓄積につれて独自な資本主義的生産様式が発展するのであり、また独自な資本主義的生産様式の発展につれて資本の蓄積が進展するのである。この二つの経済的要因は、互いに与え合う刺激に複比例して資本の技術的構成の変化を生み出すのであって、この変化によって可変成分は不変成分に比べてますます小さくなって行くのである。

各個の資本は生産手段の大なり小まりの集積であって、その大小に応じて大なり小なりの労働者軍の指揮権を持っている。どの蓄積も新たな蓄積の手段になる。それは、資本として機能する富の量の増加につれて、個別資本家の手のなかでのこの富の集積を拡大し、したがって大規模生産と独自な資本主義的生産方法との蓄積を拡大する。社会的資本の増大は多数の個別資本の増大によって行なわれる。他の事情はすべて変わらないと前提すれば、個別資本は、またそれらとともに生産手段の集積は、それらの資本が社会的総資本の加除部分をなしている割合に応じて増大する。…このような集積は、直接に蓄積にもとづくものであり、またむしろ蓄積と同じなのであるが、それは二つの点によって特徴づけられる。第一に、個別資本家の手のなかでの社会的生産手段の集積の増大は、他の事情が変わらなければ、社会的富の増大に程度によって制限されている。第二に、社会的資本の、それぞれの特殊な生産部面に定着している部分は、多数の資本家のあいだに分配されていて、彼らは互いに独立して競争する商品生産者として相対している。だから、蓄積とそれに伴う集積とが多数の点に分散されているだけでなく、現に機能している資本の増大と交錯して新たな資本の形成や古い資本の分裂がおこなわれている。それゆえ、蓄積は、一方では生産手段と労働指揮との集積の増大として現われるが、他方では多数の個別資本の相互の反発として現われるのである。

このような、多数の個別資本への社会的総資本の分裂、またはその諸部分の相互の反発にたいしては、この諸部分の吸引が反対に作用する。これは、もはや、生産手段や労働指揮の単純な、蓄積と同じ意味の集積ではない。それは、すでに形成されている諸資本の集積であり、それらの個別的独立の解消であり、資本家による資本家からの収奪であり、少数のより大きな資本への多数のより小さい資本の転化である。この過程を第一の過程から区別するものは、この過程はただすでに存在し機能している資本の分配の変化を前提するだけであり、したがってそれが行なわれる範囲は社会的富の絶対的な増加または蓄積の絶対的な限界によって制限されていないということである。一方で資本が一つの手のなかで大きなかたまりにふくれ上がるのは、他方で多くの手のなかから資本がなくなるからである。これは、蓄積および集積とは区別される本来の集中である。このような諸資本の集中または資本による資本の吸引の諸法則をここで展開することはできない。事実を簡単に示唆しておくだけで十分である。競争戦は商品を安くすることによって戦われる。商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。さらに思い出されるのは、資本主義的生産様式の発展につれて、ある一つの事業をその正常な条件のもとで営むために必要な個別資本の最小量も大きくなるということである。そこで、より小さい資本は大工業がまだまだらにしか、または不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対しあう諸資本の数に正比例し、それらの資本の大きさに反比例する。競争は多数の小資本家の没落で終わるのが常であり、彼らの資本は一部は勝利者の手にはいり、一部は破滅する。このようなことは別としても、資本主義的生産の発展につれて、一つのまったく新しい力である信用制度が形成されるのであって、それは当初は蓄積の控えめな助手としてこっそりはいってきて、社会の表面に大小さまざまな量でちらばっている貨幣手段を目に見えない糸で個別資本家や結合資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦での一つの新しい武器になり、そしてついには諸資本の集中のための一つの巨大な社会的機構に転化するのである。資本主義的生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、それと同じ度合いで競争と信用とが、この二つの最も強力な集中の槓杆が、発展する。それと並んで、蓄積の進展は集中されうる素材すなわち個別資本を増加させ、他方、資本主義的生産の拡大は、一方では社会的欲望をつくりだし、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的な手段をつくりだす。だから、今日では、個別資本の相互吸引力や集中への傾向は、以前のいつよりも強いのである。しかし、集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度まで、資本主義的な富の既成の大きさと経済的機構の優越によって規定されているとはいえ、集中の進展はけっして社会的資本の大きさの絶対的増大には依存しないのである。そして、このことは特に集中を、ただ拡大された規模での再生産の別の表現でしかない集積から区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる配分の変化によって、社会的資本の諸成分の単なる量的編成の変化によって、起きることができる。

産業施設の規模拡大は、どの場合にも、多数人の総労働をいっそう包括的に組織するための、その物質的推進力をいっそう広く発展させるための、すなわち、個々ばらばらに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になる。また、集中は、このように蓄積の作用を強くし早くすると同時に、資本の技術的構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働にたいする相対的な需要を減らすような変革を、拡大するのである。

集中によって一夜で溶接される資本魂も、他の資本魂と同様に、といってもいっそう速く、再生産され増殖され、こうして社会的蓄積の新しい強力な槓杆になる。だから、社会的蓄積の進展という場合には、そこには、集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。

要するに、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる。他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである。

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