資本主義的に使用される機械の目的…機械は、商品を安くするべきもの、労働日のうち労働者が自分自身のために必要とする部分を短縮して、彼が資本家に無償で与える別の部分を延長するべきものなのである。それは、剰余価値を生産するための手段なのである。
生産様式の変革は、マニュファクチュアでは労働力を出発点とし、大工業では労働手段を出発点とする。だから、まず第一に究明すなければならないのは、なにによって労働手段は道具から機械に転化されるのか、または、なにによって機械は手工業用道具と区別されるのか、である。
すべて発達した機械は、三つの本質的に違う部分から成っている。原動機、伝動機構,最後に道具機または作業機がそれである。原動機は全機構の原動力として働く。…伝動機構は、…運動を調節し、必要があれば運動の形態を、たとえば垂直から円形にというように、変化させ、それを道具機に分配し伝達する。機構のこの両部分は、ただ道具機に運動を伝えるためにあるだけで、これによって道具機は労働対象をつかまえて目的に応じてそれを変化させるのである。機械のこの部分、道具機こそは、産業革命が18世紀にそこから出発するものでる。それは、今もなお、手工業経営やマニュファクチュア経営が機械経営に移るたびに、毎日繰り返し出発点となるのである。道具機というのは、適当な運動が伝えられると、以前に労働者が類似の道具で行なっていたのと同じ作業を自分の道具で行なう一つの機構なのである。その原動力が人間から出てくるか、それともそれ自身また一つの機械から出てくるかは、少しも事柄の本質を変えるものではない。本来の道具が人間から一つの機械に移されてから、次に単なる道具に変わって機械が現われるのである。…同じ道具機が同時に動かす道具の数は、一人の労働者の使う手工業道具を狭く限っている有機体的な限界からは、はじめから解放されているのである。
産業革命の出発点となる機械は、ただ一個の道具を取り扱う労働者の代わりに一つの機械をもってくるのであるが、この機械は一時に多数の同一または同種の道具を用いて作業し、またその形態がどうであろうと単一な原動力によって動かされるものである。ここにわれわれは機械を、といってもまだ機械的生産の単純な要素として、もつのである。
(注100)
近代の機械が最初に征服する作業は、すでにマニュファクチュア的分業によって簡単にされていた作業だという見解は、およそまちがいである。紡ぐことと織ることとは、マニュファクチュア時代のあいだにいくつもの新しい種類に分かれ、その道具は改良され変化したが、労働過程そのものは少しも分解されないで相変わらず手工業的だった。労働からでなく、労働手段から、機械は出発するのである。
ところで、二つのものが区別されなければならない。多数の同種の機械の協業と機械体系とがそれである。
前の場合には、一つの製品全体が同じ作業場でつくられる。この作業機がいろいろな作業のすべてを行なうのであって、これらの作業は、一人の手工業者が自分の道具で、…または、何人かの手工業者がいろいろな道具で、独立であろうと一つのマニュファクチュアの手足としてであろうと、順々に行なっていたものかである。…マニュファクチュアのなかで分割されて一つの順序をなして行なわれる総過程が、この場合には、いろいろな道具の組み合わせによって働く一台の作業機によって完了されるのである。ところで、このような作業機が一つの複雑な手工業道具の機械的再生でしかないものであろうと、またはマニュファククチュア的に特殊化された各種の簡単な用具の組み合わせであろうと、--工場では、すなわち機械経営にもとづく作業場では、つねに単純な協業が再現するのであって、しかも、さしあったては、同時にいっしょに働く同種の作業機の空間的集合として再現するのである。
ところが、本来の機械体系がはじめて個々の独立した機械に代わって現われるのは、労働対象が互いに関連のあるいろいろな段階を通り、これらの段階過程がさまざまな、といっても互いに補い合う一連の道具機によって行なわれる場合である。ここでは、マニュファクチュアに固有な分業による協業が再現するのであるが、しかし今度は部分作業の組み合わせとして再現するのである。…結合された作業機、すなわち今ではいろいろな種類の個々の作業機から、またそれらの群から編成された一つの体系は、その総過程が連続的であればあるほど、すなわち原料が第一の段階から最後の段階まで移ってゆくあいだの中断が少なければ少ないほど、つまり人間の手に代わって機構そのものが原料を一つの生産段階から次の生産段階に進めてゆくようになればなるほど、ますます完全なものになる。マニュファクチュアでは各種の特殊過程の分立化が分業そのものによって与えられた原理だとすれば、それとは反対に、発達した工場ではいろいろな特殊過程の連続が支配するのである。
ミュール紡績機や蒸気機関などは、それらの製品を専業とする労働者がまだいないうちからあったのであって、ちょうど、世の中に仕立て屋がいないうちから人間は衣服を着ていたようなものである。とはいえ、ヴォーカンソンやアークライトやウオットなどの発明が実用化されることができたのは、ただ、これらの発明家たちの目の前に、マニュファクチュア時代から既成のものとして供給されたかなりの数の熟練した機械労働者があったからにほかならない。これらの労働者の一部分はいろいろな職業の独立手工業者から成っており、別の一部分はマニュファクチュアのなかに集められていて、このようなマニュファクユアでは、前にも述べたように、分業が特に厳しく行なわれていた。発明が増し、新しく発明された機械にたいする需要が増してくるにつれて、一方ではさまざまな独立部門への機械製造の分化が、他方では、機械製造マニュファクチュアのなかでの分業が、ますます発展してきた。だから、この場合にはわれわれはマニュファクチュアのなかに大工業の直接的な技術的基礎を見るのである。かの、マニュファクチュアが機械を生産し、その機械を用いてこの大工業は、それがまず最初にとらえた生産部面で、手工業的経営やマニュファクチュア的経営をなくしたのである。こうして、機械経営は自分にふさわしくない物質的基礎の上に自然発生的に立ち現われたのである。機械経営は、ある程度まで発展してくれば、この最初は既成のものとして与えられ次いで古い形のままでさらに仕上げを加えられた基礎そのものをひっくり返して、それ自身の生産様式にふさわしい新たな土台をつくりださなければならなかった。
大工業はその特徴的な生産手段である機械そのものをわがものとして機械によって機械を生産しなければならなくなった。このようにして、はじめて大工業はそれにふさわしい技術的基礎をつくりだして自分の足で立つようになったのである。19世紀の最初の数十年間に機械経営が拡大されるにつれて、実際に機械はしだいに道具機の製造を支配するようになった。とはいえ、最近の数十年間にはじめて、大規模な鉄道建設と汽船による航海とが、原動機の建造に使用される巨大な機械を出現させたのである。
機械は、…直接に社会化された労働すなわち共同的な労働によってのみ機能する。だから、労働過程の協業的性格は、今では、労働手段そのものの性質によって命ぜられた技術的必然となるのである。