摘要ノート「資本論Ⅱ」(6)

第一篇 資本の諸変態とその循環

第二章 生産資本の循環

第一節 単純再生産

商品資本 W' の貨幣への転化が行なわれれば、その貨幣総額のうちの資本価値を表わす部分は、引き続き産業資本の循環のなかで流通する。もう一つの部分、金メッキされた剰余価値は一般的な商品流通にはいり、これは資本家から出発する貨幣流通ではあるが、彼の個別資本の流通の外で行なわれる。・・この貨幣は、前貸しされるのではなく、支出されるのである。

W'-G'=W'-(G+g)によって商品資本が実現されることによって、W'-G' ではまだ同じ商品量に担われていっしょに行なわれる資本価値と剰余価値との運動が二つに分かれることができるようになる。なぜならば、両方とも今ではある貨幣額としてそれぞれ独立な形態を持っているからである。第二に、g は資本家の収入として支出されるが G のほうは資本価値の機能的形態としてこの循環によって規定された自分の軌道を歩み続けるということによって、この分裂が生ずるとすれば、第一の行為 W'-G' は次にくる二つの行為 G-W と g-w とに関連させて見れば、二つの別々な流通、W-G-W と w-g-w として示すことができる。どちらも、一般的な形態から見れば、普通の商品流通に属する順序である。
 一般的流通のなかでは、W' たとえば糸は、ただ商品として機能するだけである。しかし、資本の流通の契機としては、それは、商品資本として、すなわち資本価値が取っては捨て捨てては取る姿として、機能する。糸が商人に売られてからは、それはそれを生産物とする資本の循環過程からは引き離されているが、それにもかかわらず引き続き商品として一般的な流通の圏内にある。同じ商品量の流通は、紡績業者の資本の独立な循環の一契機ではなくなっているとはいえ、やはり続いている。それゆえ、資本家によって流通に投ぜられた商品量は現実の最終的な変態、W-G,この商品量の消費への最終的脱落は、この商品量が彼の商品資本として機能する変態からは、時間的にも空間的にもまったく分離されていることがありうるのである。資本の流通ではもうすんでいるその同じ変態が、一般的な流通の部面ではこれから行なわれることになるのである。

第二の段階 G-W では、P(P・・Pでは産業資本の循環を開始する生産資本の価値)に等しい資本価値 G が、剰余価値から解き放たれて,したがって貨幣資本の循環の第一段階 G-W にあったときと同じ価値量で、再び現われている。その位置は違っていても、いま商品資本が転化した貨幣資本の機能は同じものである。すなわち、Pm と A とへの、生産手段と労働とへの、貨幣資本の転化である。こうして、資本価値は、商品資本の機能 W'-G' では w-g と同時に W-G の段階を通り、そして今度は補完の段階 G-W(A&Pm)にはいるのである。だから、資本価値の総流通は W-G-W(A&Pm)である。
 第一に。貨幣資本 G は,循環 G…G' では、資本価値が前貸しされる最初の形態として現われた。それはここでははじめから、商品資本が第一の流通段階 W'-G' で転化した貨幣額の部分として現われるのであり、つまり、はじめから、商品生産物の売りによって媒介される生産資本 P の貨幣形態への転化として現われるのである。貨幣資本はここでははじめから、資本価値の最初の形態でも最後の形態でもない形態として存在する。なぜならば、段階 W-G に続く結びの段階 G-W は、ただもう一度貨幣形態を捨てることによってのみ行われうるのだからである。それだからこそ、G-W のうちの同時に G-A である部分も、もはや労働力の買い入れによる単なる貨幣前貸としては現われないで、労働力によってつくりだされた商品価値の一部分をなしている50ポンド・スターリングという価値の1000ポンドの糸が貨幣形態で労働力の買い入れに前貸しされるという前貸として現われるのである。ここで労働者に前貸しされる貨幣は、ただ、労働者自身が生産した商品価値の一部分が転化した等価形態でしかないのである。そして、すでにこういう理由からも、G-W という行為は、それが G-A であるかぎりでは、けっして貨幣形態にある商品を使用形態にある商品に置き替えるだけのことではなく、一般的な商品流通そのものからは独立した別の諸要素を含んでいるのである。…G' は W' が転化した形態として現われ、この W' はそれ自身また生産過程 P の過去の機能の生産物である。だから総貨幣額 G' は過去の労働の貨幣表現として現われるのである。
 第二に。流通 W-G-W(A&Pm)では、同じ貨幣が二度位置を取り替える。資本家はまず売り手としてそれを受け取り、それから買い手としてそれを手放す。商品の貨幣形態への転化は、ただ商品を貨幣形態から再び商品形態に転化させるのに役だつだけである。だから、資本の貨幣形態、貨幣資本としての資本の存在は、この運動ではただ一時的な契機でしかない。すなわち、貨幣資本は、運動がよどみなく行なわれるかぎり、それが購買手段として役だつ場合にはただ流通手段として現われるだけである。それが本来の支払手段として現われるのは、資本家たちが互いに相手から買い合うのでただ支払差額を決済すればよいという場合である。
 第三に。貨幣資本の機能は、それがただの流通手段として役だつのであろうと支払手段として役だつのであろうと、ただ、W を A と Pm とに取り替えることを、すなわち生産資本の結果である商品生産物(収入として消費される剰余価値を引き去ったあとの)としての糸をその生産要素に取り替えることを、つまり資本価値が商品としての形態からこの商品の形成要素に再転化することを、媒介するだけである。要するに、それはただ商品資本が生産資本に転化することを媒介するだけである。

G…G'では G は資本価値の最初の形態であって、それが捨てられるのは、再びとられるためである。P…W'-G'-W…P では、G はただ過程のなかでとられる形態であって、すでに過程のなかで再び捨てられる形態である。貨幣形態は、ここではただ資本の一時的な独立な価値形態として現われるだけである。資本は、W' としては貨幣形態をとりたがり、貨幣形態にはいって蛹になれば、今度は、G'として,貨幣形態を脱ぎ捨てて再び生産資本の形態に変わりたがるのである。資本は、貨幣でいるあいだは資本として機能しないのであり、したがってまた価値増殖もされないのである。資本は遊休しているのである。G は、ここでは流通手段として働くのであるが、しかし資本の流通手段としてである。資本価値の貨幣形態がその第一の循環形態(貨幣資本の循環)でもっている独立性の外観は、この第二の形態では消えてしまい、したがって第二の形態は第一の形態の批判をなしており、第一の形態を一つの単に特殊な形態にしてしまうのである。第二の変態 G-W が障害にぶつかれば(たとえば生産手段が市場になければ)、循環は、再生産過程の流れは、中断されるのであって、ちょうど、資本が商品資本の形態のままで動かずにいるのと同じことである。しかし、次のような相違がある。資本は、変わりやすい商品形態にあるよりも貨幣形態にあるほうが長持ちする。資本は、貨幣資本として機能しなくても、貨幣でなくなるのではない。しかし、資本は、商品資本として機能することをあまり長く妨げられれば、商品ではなくなり、また、およそ使用価値ではなくなってしまう。第二に、それは、貨幣形態にあれば、その最初の生産資本形態とは違った別の生産資本形態をとることもできるが、W' としてはまったく動きがとれないのである。

W'-G'-W は、ただ W' にとってのみ、その形態から見て、その再生産の契機である流通行為を含んでいる。しかし、W'-G'-W が行われるためには、W' が転換される W の現実の再生産が必要である。しかし。この再生産は、W'に表わされる個別資本の再生産過程の外にある多くの再生産過程によって制約されているのである。

W'-G' という行為は、資本価値の循環の継続についても、資本家による剰余価値の消費についても、ただ、W' が貨幣に転化したということ、それが売られたということを意味しているだけである。W' が買われるのは、もちろん、その物品がある使用価値であり、したがって生産的または個人的ななんらかの種類の消費に役だつからにほかならない。しかし、W' が、たとえば糸を買った商人の手で、さらに流通を続けるとしても、そのことは、この糸を生産して商人に売った個別資本の循環の継続には、なんの関係もない。全過程がその歩みを続けて行き、またそれとともに、それを条件とする資本家や労働者の個人的消費も続いて行く。この点は、恐慌を考察する場合に重要である。
 すなわち、W' は、売られて貨幣に転化していれば、労働過程の、したがってまた再生産過程の、現実の諸要因に再転化させられることができるのである。だから、W' を買った人が最終消費者であるか、それとも再びそれを売るつもりでいる商人であるかは、直接には少しも事柄を変えないのである。資本主義的生産によって生産される商品量の大きさは、この生産の規模とその不断の拡大欲求とによって規定されるのであって、需要と供給の、充足されるべき諸欲求の予定された範囲によって規定されるのではない。大量生産にとっては、その直接の買い手としては、他の産業資本家たちのほかには、ただ卸売商人があるだけである。再生産過程は、そこから押し出された商品が現実に個人的または生産的消費にはいっていなくても、ある限界のなかでは同じ規模かまたは拡大された規模で進行することができる。商品の消費は、その商品が出てきた資本の循環には含まれていない。たとえば糸が売れていさえすれば、その売られた糸がさしあたりどうなろうとも、糸に表わされている資本価値の循環はまた新しく始まることができる。生産物が売れるあいだは、資本家的生産者の立場からは万事が正常に進行するのである。彼が代表する資本価値の循環は中断されない。そしてもしこの過程が拡大されているならば -それは生産手段の生産的消費の拡大を含むー、このような、資本の再生産は、労働者の個人的消費(したがって需要の)拡大を伴うことがありうる。なぜならば、これは生産的消費によって準備され媒介されているからである。このように剰余価値の生産も、またそれとともに資本家の個人的消費も増大し、再生産過程全体が非常に盛んな状態にあるのに、それにもかかわらず諸商品の一大部分はただ外観上消費にはいったように見えるだけで、現実には売れないで転売者たちの手のなかに滞留しており、したがって実際はまだ市場にあるということもありうるのである。そこで、商品の流れが次から次へと続いて行くうちに、ついには以前の流れはただ外観上消費に飲み込まれただけだということがわかるのである。多くの商品資本が市場で争って席を奪い合う。あとから押し寄せるものは、とにかく売ってしまうために、投げ売りをする。前からきている流れがまださばけていないのに、その支払期限がやってくる。その持ち主たちは、支払不能を宣言せざるをえないか、または支払いをするためにどんな価格ででも売ってしまうよりほかはない。このような販売は、現実の需要の状態とはまったくなんの関係もない。それは、ただ、支払いに対する需要に、商品を貨幣に転化させることの絶対的な必要に、関係があるだけである。そこで恐慌が起きる。恐慌が目に見えるようになるのは、消費的需要すなわち個人的消費のための需要の直接の減少によってでなく、資本と資本との交換の減退、資本の再生産過程の縮小によってである。
 G は貨幣資本として、生産資本への再転化を予定された資本価値として、その機能を行なうために、商品 Pm と A とに転換されるのであるが、- もしこれらの商品がいろいろに違った時期に買われたり支払われたりするとすれば、つまり G-W が次々に行なわれる一連の購入または支払いを表わすとすれば G の一部分は G-W という行為を行なうが,他の一部分は貨幣状態にとどまっていて、過程そのものの諸条件によって規定されたある時期になってからはじめて、同時にかまたは次々に行なわれる G-W という行為に役だつことになる。この部分は、一定の時期に行動を起こしてその機能を行なうために、ただ一時的に流通から引きあげられているだけである。その場合には、この部分のこのような貯蔵は、それ自体、その流通によって規定され流通のために規定された一機能なのである。この場合には、購買・支払財源としてのこの部分の存在、その運動の中止、その流通中断の状態は、貨幣が貨幣資本としての諸機能の一つを行なっている状態である。貨幣資本として、というわけは、この場合には一時休止している貨幣は、それ自体、貨幣資本 G(G'-g=G)の一部分だからであり、商品資本の価値のうち循環の出発点である生産資本の価値 P に等しい部分の一部分だからである。他方、流通から引きあげられた貨幣はすべて蓄蔵貨幣形態にある。だから、ここでは貨幣の蓄蔵貨幣形態が貨幣資本の機能になるのであって、それはちょうど G-W で購買手段または支払手段としての貨幣の機能が貨幣資本の機能になるようなものであり、しかも、それは、資本価値がここでは貨幣形態で存在するからであり、ここでは貨幣状態が、その諸段階の一つにある産業資本にとって循環の関連によって規定されている状態だからである。しかし、それと同時にここで再び実証されることは、貨幣資本は産業資本の循環のなかで貨幣機能以外の機能を行なうのではないということ、そして、この貨幣機能はただこの循環の他の諸段階との関連によってのみ同時に資本機能の意義をもつのだということである。
 G' を、G にたいする g の関係として、資本関係として、表わすことは、直接には貨幣資本の機能ではなく、商品資本 W' の機能であるが、この W' そのものもまた w と W との関係としてはただ生産過程の結果を、すなわちこの過程で行なわれた資本価値の自己増殖の結果を表わしているだけである。
 もし流通過程の進行が障害にぶつかって、G が市場の状況というような外部の事情によってその機能 G-W を中止せざるをえなくなり、そのために長短の期間その貨幣状態にとどまるとすれば、これもまた貨幣の蓄蔵貨幣状態であって、この状態は単純な商品流通でも W-G から G-W への移行が外部の事情によって中断されればすぐに現われるものである。それは、自発的でない貨幣蓄蔵である。われわれの場合には、貨幣はこのようにして遊休的潜在的な貨幣資本の形態をとるのである。しかし、どちらの場合にも、貨幣資本が貨幣状態に停滞するということは運動の中断の結果として現われるのであって、この中断が合目的的であろうと反目的的であろうと、自発的であろうと非自発的であろうと、合機能的であろうと反機能的であろうと、そのことには変わりはないのである。

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