元素から原子へ

思考は過去、現在、未来の億兆の人間の個人的な思考とし てしか存在しない。そして我々が訂正できる世代の数よりも、将来われわれを訂正するであろう 世代の数のほうが、おそらくずっと多いだろう。 「エンゲルス」

近代の自然科学はギリシア古代を再現し、それとともに新時代における芸術の最高度の発展をもたらし、美術・文芸などに新分野を開いたルネサンス・あの偉大なる時代とともに始まる。 最初の自然科学分野は、天文学であった。ニコラウス・コペルニクス(1473年 - 1543年)は、教会のあらゆる権威が支持していた幾世紀にもわたる謬見から、科学を解放し、また自由な科学的思想のその後の発展に力強い推進力を与えた。彼は、「コメンタリオルス」で「天空で現れる運動は何であれ、それは天空の側にではなく地球の側に由来していること、したがって近隣の諸元素とともに地球全体は、その両極を普遍にしたまま日周回転しており、天空と究極天は不動のままである」とのべている。 さらにガリレイとケプラーの業績は、ニュートンの偉大な著作”プリンキピア”「自然 哲学の数学的原理」(1687 年)の出現のための土壌を、直接に準備した。彼らは、実験に立脚し実験のデータの取りまとめと一般化のために数学を使う、という新しいそして完全な意味で科学的な自然研究法を取り入れた。これらの新しい科学研究方法がつくり上げられると、それに伴って、自然界 にかんする人間の知識がひじょうにひろがり、精密になった。人類は、科学上のまた技術上の偉大な発見が間断なく増加し、さらにいっそう急速になる時代へと、突入したのである。

元素の探求

レウキッポスとデモクリトス(紀元前460年頃ー紀元前370年頃)らは、自然を構成するそれ以上分割できない最小単位として「原子(アトム)」が存在すると考え、生成消滅しない無数の原子の結合分離の仕方により、多様な事物やその生成変化が生じる、などと論じた。物質が不可分の小さな粒子からできているという基本的な考え方は、多くの古代文化に登場する古い考え方である。アトム(atom)という言葉は、古代ギリシア語で「切断できない」という意味のアトモス(atomos)に由来するといわれている。しかし彼らの「原子論」は当時あまり評価されることは無く、万物は四元素から構成されていると考えたアリストテレス(前384年 - 前322年)らの物質観が、中世アラビアの錬金術に多大な影響をもたらした。

四元素・・この世界の物質は、火・空気・水・土の4つの元素から構成されるとする概念である。4つの元素は、土や水など、実際にその名でよばれている具体物を指すわけではなく、物質の状態であり、様相であり、それぞれの物質を支える基盤のようなものだとされた。土は「乾-冷」、水は「冷-湿」、空気は「湿-温」、火は「温-乾」の性質をそれぞれもっている。また、土と水は「重さ」の性質をもち(土は水より重い)、空気と火は「軽さ」の性質をもつ(火は空気よりも軽い)とされた。そのため、土と水は自らの性質に応じて下降運動し、逆に、空気と火は上昇運動するのである。
 アリストテレスの物質観は、われわれが日常的に観察することのできる物質の変化や運動を実に巧みに説明してくれる。 四元素は、四性質を変化させることによって相互に転換可能ということになる。かくて、この理論によって、自然界に生じている多彩な物質変化が体系的に説明可能となったのである。ところで、物質が相互転換可能だということは、工夫次第では、人間にとって有用で貴重な物質、たとえば金や不老不死の薬も作り出すことができるということを意味している。古代エジプト以来の歴史をもつ錬金術(Alchemy)がアリストテレスの物質観にそのよりどころを見い出したのも当然といえよう。

原子論によれば、原子は空虚(真空)の中を飛び回っている。なぜなら、原子と原子の間には何もない空間がなければならないからである。そのため、原子論は論理的に真空の存在を前提としている。この点でも原子論は、空虚(=非存在)の存在は認められないという立場から、「自然は真空を嫌悪する」としたアリストテレスと好対照をなしている。

 錬金術では経験的技術の蓄積や実験手段の洗練化が行われたが、卑金属から貴金属をつくるという目的と、成果が門外不出とされ秘匿される傾向にあり、学問としての元素の探求にはあまり寄与しなかった。(古代よりこのころまでに認識されていた物質として、金、銀、銅、硫黄、スズ、鉛、水銀、鉄、炭素、亜鉛、ヒ素、アンチモンがある) しかし、錬金術の試行の過程で、硫酸・硝酸・塩酸など、現在の化学薬品に通じる多くの発見がなされており、蒸留の技術や実験道具が発明された。

物質の根源は何かという問いを改めて提議した人物がアイルランド生まれのロバート・ボイル(1627年 - 1691年)である。ボイルも錬金術師だった。しかし、彼は「科学する人」であった。業績としては「ボイルの法則」が有名であるが、化学も好んで研究した。彼にとって化学は錬金術師や医師の技法への単なる付加物ではなく、物質の構成を探究する科学だった。彼は物質の基本構成要素として元素の存在を認め、混合物と化合物を区別した。物質の成分を検出する技法について様々な進歩をもたらし、そういったプロセスを "analysis"(分析)と名付けた。特に著書『懐疑的化学者』(1661年)は化学という分野の基礎を築いたとされ「近代化学の祖」ともいわれている。

フランスの科学者、アントワーヌ・ラヴォアジエ(1743年 - 1794年)は、金属を燃焼すると質量が増すという実験結果などを元に、物質の体積と重量を精密に測る定量実験を行い、化学反応の前後では、反応系の物質全体の質量が変化しないことを発見した。すなわち、今日においても化学の重要な基本法則とされる質量保存の法則である。そして、物質の燃焼において中心的な役割をするのは、物質に含まれるとされていたフロギストンではなく、空気中に含まれる酸素であると提唱した。 さらに元素について単体と化合物を系統的に理解しようとした試み、著書『化学原論』で、33項目を「単一物質」として挙げている。その一方でラヴォアジエは、酸素は、現在考えられているような酸素分子ではなく、「酸素の基」と「火の物質」から成るものであると考えていた。同書に掲載されている元素一覧でも酸素、水素、窒素と並んで、光素と熱素が記されている。ラヴォアジエは、それまで同一視されてきた光、火、熱を分離し、光は光素、火は酸素、そして熱は熱素によるものだと捉えたのである。そしてこの「火の物質」は、後にカロリックと呼ばれた。

フロギストン説、燃焼は一種の分解現象であり、可燃物からフロギストン(燃素)が飛び出す現象であるとする。
カロリック説は、物体の温度変化をカロリック(熱素)という物質の移動により説明する学説。

1799年にジョゼフ・ルイ・プルーストは、「質量保存の法則」や自身の研究から「物質が化学反応する時、反応に関与する物質の質量の割合は、常に一定である」ということを提唱した。これは化合物を構成する成分元素の質量の比は常に一定であることも意味する。しかし当時はまだ混合物と化合物の違いが明確に区別されていなかったため、鉱物の組成などを例にあげ、化合物を構成する成分元素の比は産地や製法によって変化するとの考え方が主流であった。プルーストはこれに対し、鉱物から得られたものも実験室で合成したものも同じ組成を持つこと、組成が変化するように見えるのはこれらの混合物である、と述べた。

イギリスの化学者ジョン・ドルトン(1766年 - 1844年)は、ある化学元素を含む化合物について、化合物中の元素の含有量を重量で表現したとき、小さな整数の比率で異なることに気づいた。 そして 一定の質量比率の相互作用によって化学反応が起きているという考えは、その組み合わせは常に可能な限り単純なものになると仮定し、化学反応が異なる質量の粒子の組み合わせで起きるという考え方に到達した。それは任意の量で反応するのではなく、基本的な不可分の質量単位の倍数で反応することを示唆している。そして気体が全て「不可分のあるモノから成る」と確信したドルトンは、これを物質の基本的な単位と考え、その単位を指す言葉として「原子」という言葉を使うことにしたが、それは新しい「原子像」であった。

〇元素は原子と呼ばれる小さな粒子でできている。
〇同じ元素の原子は、同じ大きさ、質量、性質を持つ。
〇ある元素の原子は、他の元素の原子とは異なる。
(異なる元素の原子は相対原子質量によって互いに区別できる)
〇化合物は、異なる原子が一定の割合で結合してできる。
〇化学反応は、原子と原子の結合の仕方が変化するだけで、新たに原子が生成したり、消滅することはない。

ドルトンは元素がそれぞれの元素に固有の原子からなると考えた。ここから、1 種類の原子だけからなる物質種としての元素(化学元素)という概念が生まれてくる。ドルトンは、化学元素はそれぞれ一種類の単一の原子から構成され、化学的な手段によって変化させたり破壊することはできないが、結合してより複雑な構造、つまり化合物を形成することができると提唱した。これは、ドルトンが実験と結果の検証に基づいて到達した結論であった。 人類はプラトン、アリストテレス以来の「四元素」の呪縛から解放されるためには二千年の年月を必要としたのである。
彼は水素原子の質量を1として 相対原子質量(原子量)の表を出版した(1808年)。しかし欠陥があったとはいえ,ドルトンが化学反応の前後での質量を測定し,その反応を原子論的に考えることにより,原子のあいだの質量比が推定できると考え,それにもとづいて原子量という概念を導入したことはきわめて重要である。
エンゲルスはこの原子量にたいして「まず秩序であり、いったん得られた成果が相 対的に安定しているということであり、まだ征服されてい ない領域にたいする系統的でほとんど計画的ともいえるような攻撃であって…化学の新時代は原子論に始まり(だからラヴォアジェではなく、ドルトンが近代化学の父)」と書いている。
 こうして「物質の根源は何か」と問い続けて古代と違った「新しい原子像」にたどり着いた。 デモクリトスによれば原子はそれ自体が物質の細分割であるから,物質の種類だけ原子の 種類があることになる.それに対してドルトンの原子は基本的には物質の構成要素であり,多くの 物質が限られた種類の原子の組合せで作られる.すなわち,原子の種類には限りがある.ドルトン の原子論は,原子と原子とがつながって物質を作ることを前提としている.この点にデモクリトス とドルトンの説の大きな違いがある。

しかしドルトンの原子論では、どうしても都合がつかないような状況が生じてくるようになってきた。それが気体反応の法則である。 フランスの化学者ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック(1778年 - 1850年)は、1805年体積2の水素と体積1の酸素を反応させると体積2の水蒸気が生成することを発見した。1808年2種以上の気体が関与する化学反応について、反応で消費あるいは生成した各気体の体積には同じ圧力、同じ温度のもとで簡単な整数比が成り立つ、ということを発表した。 例えば水素2体積と酸素1体積から水2体積が生じる反応において、その比率は 2:1:2 である。水素も酸素ももし原子だとすれば、酸素は分割されてしまい、分割できないという原子論の基本に反してしまう。その矛盾を解決したのがアボガドロである。

「ドルトンの理論の欠陥は、1811年に、アメデオ・アヴォガドロによって原理的に修正された。アヴォガドロは、気体を構成している粒子は原子1個1個ではなく、それが何個か結合してできた〈分子〉であるとして,分子の概念を考え、そして温度と圧力が同じであれば、任意の2つの気体の体積は等しく、等しい数の分子を含んでいることを提唱した(つまり、気体の粒子の質量は、それが占める体積に影響を与えない)。アヴォガドロの法則によって、気体が反応したときの体積を調べることで、多くの気体が二原子であるか推測することを可能にした。たとえば、2リットルの水素と1リットルの酸素を反応させると2リットルの水蒸気を生成する(温度と圧力が一定の場合)。これは、1つの酸素分子が2つに分割されて2つの水の粒子を形成することを意味する。こうして、アヴォガドロは、酸素をはじめとするさまざまな元素の原子量をより正確に推定することができ、分子と原子を明確に区別した」のである(wiki)

しかし、水素や酸素が2つの原子が結合した分子からなるという分子説が受け入れられたのは、その発表から50年(1860年ドイツ・カールスルーエで開かれた 第一回国際化学会議)も経ってからであった。


電磁気学からの探求

古代ギリシャ人は、琥珀(こはく)が毛皮で擦られたときに、小さなものを引き寄せることに気づいていた。しかし、電磁気の研究は1600年にウィリアム・ギルバートが琥珀が摩擦でものを引きつける現象から、物質を電気性物質、非電気性物質として区別したことに始まる、といえる。1640年にはオットー・フォン・ゲーリケによって放電が確認された。
18世紀に入った1729年にスティーヴン・グレイが金属が電気的性質を伝えることを発見し、その作用を起こす存在を電気と名付けた。彼はギルバートの電気性物質の区別を、電気を導く物質として導体、電気を伝えない物質を不導体と分類した。1733年、シャルル・フランソワ・デュ・フェが摩擦によって生じる電気には二つの性質があり、同種間では反発し、異種間では引き合うこと、そして異種の電気を有する物質どうしを接触させると中和して電気的作用を示さなくなることを発見した。1746年にはライデン瓶が発明され、電気を蓄える技術を手に入れた。1750年には検電器が発明され、これらからベンジャミン・フランクリンが電気にプラスとマイナスの区別をつけることでデュ・フェの現象を説明した。
1785年にクーロンはねじり天秤を用いて、荷電粒子間にはたらく力が電荷量の二乗に比例し、距離の二乗に反比例するという法則、すなわちクーロンの法則を導きだした。

1800年、アレッサンドロ・ボルタは亜鉛と銅を交互に重ねたボルタの電堆を発明。それまでの静電発電機よりも安定的に動作する電源として、化学反応への電気の利用の研究が開始された。その年にはアンソニー・カーライルとウィリアム・ニコルソンが初めて水の電気分解に成功した。

電子の存在が明らかでなかった1833年、ファラデー(イギリス)は、電気分解における物質の変化量と電気量(通じた電流の強さと時間の積)との間の関係を実験的に見いだした。電気分解の法則の発見は、原子説からの推論により、電気の基本粒子(電子)の存在を強く示唆することとなった。

1874年に電気分解現象を研究したアイルランドの物理学者ジョージ・ジョンストン・ストーニーは、一価イオンの電荷という「単一の明確な電気量」の存在を示唆、1891年電気の“原子”というべきものをあらわすのに、electron“電子”という用語を導入した。しかし、ストーニーは、これらの電荷は原子に永続的に結びついており、分離することはできないと信じていた。

イギリスの物理学者J.C.マックスウェル〔1831-1879〕は、それまでの電磁気学をはじめ、マイケル・ファラデーによる電磁場理論をもとに、1864年にマクスウェルの方程式を導いて古典電磁気学を確立し、さらに電磁波の存在を理論的に予想しその伝播速度が光の速度と同じであること、および横波であることを示した。

1859年、陰極付近の管壁に燐光が発生し、磁場の印加によって燐光の領域が移動することを観察された。1869年、ヨハン・ヴィルヘルム・ヒットルフは、陰極と燐光の間に固体物を置くと、管の燐光領域に影を落とすことを発見し、陰極から直進性を持つ放射線が放出されており、燐光は管壁に当たった放射線によって引き起こされると推測した。1876年、ドイツの物理学者オイゲン・ゴルトシュタインは、放射線が陰極表面に対して垂直に放出されることを示し、それによってこの放射線を白熱光と区別し、この放射線を陰極線と名付けた。

イギリスの化学者で物理学者でもあるウィリアム・クルックスは、内部を高真空にした最初の陰極線管を開発した。1874年には陰極線が進路上に置かれた小さな羽根車を回転させることを示し、それによって陰極線には運動量があると結論づけた。

J・J・トムソンは1897年、この光線が(すでに知られていた磁場だけでなく)電場によっても偏向することを発見した。 これによって、クーロン力とローレンツ力を考えることで、その電荷質量比を測定し 、最小の原子である水素の1,800分の1であることを発見した。そして、この光線は光の一形態ではなく、彼が「微粒子」と呼ぶ非常に軽い負電荷の粒子で構成されていると結論づけた。 この微粒子は、それまで知られていたどの粒子とも異なっていた。(後にそれは「電子(electrons)」と呼ばれるようになった。) トムソンは、電子が陰極線管内の微量の気体の原子から飛び出したものと考え、原子は分割可能だとし、電子がその構成要素になっていると考えた。

真空放電とクルックス管 (https://www.youtube.com/watch?v=ompmrdlcCw8)

放射能の発見

古代から人々の夢…鉄や鉛のような金属を金に変えることはできないだろうか…とりわけ中世の錬金術師たちは,この夢を追い続けた。彼らの夢は実現しなかったが,彼らの得た物質や化学変化の知識がもとになり,18世紀には近代化学が花開くことになる。近代化学においては,物質はすべて不変な原子から構成されているという物質観が支配的であり,原子の変換などは頭から否定されていた。だが,こうした近代化学の物質観も,やがて放射能の発見などが契機となり、新たな展開を迎えることになる。
img (www.kantei.go.jp/)

19世紀、陰極線は、ある程度真空に近づけたガラス管に金属電極を配し、そこに高電圧を印加することで発生させていた。したがって陰極線は封印されたガラス管の中にあった。ドイツの学者W.K.レントゲン〔1845-1923〕は、陰極線の実験をしているときたまたま放電管の近くの蛍光物質が光ることを見逃さなかった。真空放電管の螢光を発するガラス壁から放射されていた。
 目に見えないこの放射線は、可視光線を通さない紙や木は透過するが、人の骨や鉛に対しては不透過であることが分かった。放電管と写真乾板の間に不透過の物質を置くと、その影が写った。そこで試しに妻の手を照射したところ、手の骨と金属の結婚指輪だけが写った写真が撮れたのである。放射線の歴史はここから始まる。1895年である。
  レントゲンは、この未知の線をX線と名付け、同年12月、「放射線の一新種について」と題した論文を発表した。この論文は翻訳されて、専門家の間で大きな反響を呼び起こした。

レントゲンの発見に刺激を受けた、フランスの物理学者アンリ・ベクレルは、強い螢光を放つ物質を調べれば,X線のような放射線が見つかるかもしれない、と考えた。1789年にドイツ人化学者クラプロートによって発見された、ウランの酸化物や塩化物は、日光を当てると鮮やかな色や緑色の蛍光を発するため、それ以来、ガラス、陶器、磁器などの着色剤として利用されていた。そこでウランの化合物を使ってこの考えを確かめていたとき、それが外部エネルギー源にさらされなくても放射線を発することを発見した。それはX線とは全く違う放射線であった(1896年)。
ベクレルの発見に注目した数少ない科学者のなかに M.キュリー(1867-1934)がいた。夫のピエール・キュリーとともに、ウラン化合物から出る放射線に着目して研究して、ウラン化合物の放射線は化合物の形や光や温度には影響されず、ウラン原子の含有量のみに関係されることを確認した。そして、ウラン以外にも放射線を出す能力があるのではと研究を進め、1898年にトリウムにも同じ性質があることを発見し、放射線を出す能力のことを放射能、放射線を出す物質のことを放射性物質と名付けた。さらに同年、放射能を持つ未発見の新元素を2つ発見し、それぞれポロニウムとラジウムと名付けた。
そして1900年、ピエール.キュリーは、磁場によって曲げられるものと曲げられないものとに放射線を分け、前者は透過能大、後者は小であることを確認した。さらにマリー.キュリーと協力して前者だけを金属板に受け、それが負電荷を運ぶ事を証明した。
同じ年にベクレルは、ラジウムが放出する放射線が電場によって偏向され、その質量電荷比は陰極線のそれと同じであることを示した。
これらの結果からキュリー夫妻は、従来全ての電荷は物質に結びついていることを指摘し、ラジウムは負に帯電した物質粒子を連続的に放出しているのではないか、従って物質粒子の放出が放射能に他ならないと述べ、そうならば元素原子は不変ではあり得ない事を示唆した。

こうして放射能が原子の内部で起こる変化に起因することが認められてくると,原子が構造をもつことは確実になってきた。それ以上分割できない粒子と考えられていた原子は、いまでは物質を新しく、もっと深く理解するための出発点にかわった。

元素の確定への探求

古代より16世紀ころまでに認識されていた物質として、金、銀、銅、硫黄、スズ、鉛、水銀、鉄、炭素、亜鉛、ヒ素、アンチモンがあったが、その後18世紀から19世紀にかけて多数の新元素が次々に発見されていた。これらは.性質があまりにも似ているため,異なる元素なのか同一なのかの判定も,困難な場合が出てきた。
プンゼンは,煤をほとんど発生せずほとんど 無色透明で高温の炎が得られるガスバー ナーを制作,この炎を 用いて金属塩の炎色についての詳細な研究を行った・その結果,炎光の輝線スペクトルは元素に固有のパターンを示すこと,混合物の炎光スペクトルでもそれぞれの元素の輝線が測定されることを見出し,これを“元素の指紋”として元素の同定に利用できることを明らかにした。
輝線は、原子から発せられる光で、吸収線(暗線)は、原子が連続光のある特定の波長を吸収するためにあらわれる。このとき吸収される光の波長は、原子から発せられる光と同じ波長のものであることを、ブンゼンとキルヒホフは太陽光ス ペクトルの輝線と暗線を検討することにより、発見した。
こうして今までにない分光分析法が開発された(1859)。分光分析の手法の導入・開発は,元素の発見にとって画期的な出来事であった。そして彼らはセシウム(1860 年)とルビジウム(1861 年)を発見した.多くの化学者がこの新手法を武器にして,「元素狩り」に取り組んだ。
1868年、インドで観測された皆既日食で、太陽の縁から立ち昇るプロミネンスの光のスペクトルに新たな輝線を発見された。この輝線は、新しい原子によるものと考えられ、その原子はヘリウムと名付けられた。
地球上でヘリウムが発見されたのは、それから27年後の1895年、ウィリアム・ラムゼーが分光法で分析することにより、地球上にあるヘリウムを発見する。