パレスチナの歴史[資料]

聖書で「乳と蜜の流れる土地(肥沃な大地)」(申命記11章9節)とたたえられたパレスチナ。 この地はローマ帝国の後遊牧民族オスマン帝国が支配し、アラビア語を共通言語とし、 イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が共存していた。

しかし19世紀、西欧帝国主義諸国が中東に進出してきた。第一次世界大戦中イギリスは 対トルコ戦協力(アラブ反乱)を条件にアラブ人居住地の独立支持を約束(フサイン=マクマホン協定する一方、バルフォア宣言.パレスチナにおけるユダヤ人の居住地(ナショナルホーム)の建設に賛意を示し、その支援を約束,さらに同盟国であるフランスとは、戦争終結後は分割するという協定(「サイクス・ピコ協定」)を秘密裏に結ぶ(1916年5月)。
このイギリス政府の三枚舌外交が、現在に至るまでのパレスチナ問題の遠因になったといわれている。

第一次世界大戦(14.7~18.11) 20世紀の初め、ヨーロッパではドイツ・オーストリア・イタリアの「三国同盟」と、イギリス・フランス・ロシアの「三国協商」が対立。 そんな中、1914年にオーストリア皇太子夫妻が暗殺されるという事件が起きた。 これをきっかけとして、世界的規模の戦争・第一次世界大戦が始まる。

フサイン=マクマホン協定(1915年10月) イギリスが、オスマン帝国の支配下にあったアラブ地域の独立と、アラブ人のパレスチナでの居住を認めた協定。

バルフォア宣言(1917年11月)で、ユダヤ人がイギリスに協力する代わりに、パレスチナに「民族郷土」(ナショナル・ホーム)を作ることを承認した。ポグロムと呼ばれるユダヤ人虐殺を行ってきたロシア帝国に対しては多くのユダヤ人が反発しており、第一次大戦開戦当初はロシアと戦うドイツ帝国にユダヤ人の支持が集まりつつあった。このため、イギリスとしてはシオニストを支援することによって、ヨーロッパや中立国アメリカのユダヤ人の支援をイギリスや連合国に集めることができるという思惑が背景にあった。バルフォア宣言はその集大成である。

1915年、オスマン帝国が中央同盟国に参加して第一次世界大戦に参戦すると、スエズ運河がオスマン帝国軍の脅威にさらされ、連合国の戦略的利益が危うくなり、とりわけイギリスはインドとの連絡が危うくなった。これに対し、イギリス政府と軍は、地中海とペルシャ湾の間に陸橋状の地域を確保するという戦略を立てた。これにより、スエズ運河の代替となる陸上ルートを確保でき、陸上からペルシャ湾岸に軍を送ることが可能になり、インドの権益を守ることも、北からのロシアの侵略を防ぐこともできるようになるという計画であった。このために地中海側のパレスチナを確保することが重要となった。

1920年4月のサン・レモ会議でようやく最終的に固まった。連合国最高委員会は委任統治領パレスチナと委任統治領メソポタミアをイギリスに、委任統治領シリアと委任統治領レバノンをフランスに、それぞれ与えることで合意した。

パレスチナは、16世紀以来この地を治めていたオスマン帝国から、第一次世界大戦後にイギリス帝国の委任統治下に入った領土である。イギリスは1918年にこの地の占領統治を開始し、1920年から高等弁務官による民政を開始して実質的に植民統治を開始していた。

しかしユダヤ人は西洋では国外退去を余儀なくされユダヤ人に対する迫害は続き、1930年代以降ナチスによるユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れることになる。ヨーロッパキリスト教社会は近代になっても、反ユダヤ主義のレイシズム(人種主義)を克服することはできなかった。

1939年にイギリスが発表したパレスチナ白書(マクドナルド白書)は、分割案を破棄し、パレスチナ国家の10年以内の独立、ユダヤ人移民の抑制、ユダヤ人への土地売却規制をうたったもので、これは民族郷土を破棄されたと感じたユダヤ人による反英運動の激化を招いた。修正主義シオニストが反英テロを行う一方、主流派シオニストはイギリスからアメリカ合衆国へと協力相手を変え、1942年には、ニューヨークにシオニズム運動家が集まりビルトモア・ホテルでビルトモア会議が開かれ、パレスチナ全体にユダヤ共同体を確立するという「ビルトモア綱領」が採択された。1946年にはイギリスが再度パレスチナ問題の主導権を握ろうと英米調査委員会(モリソン・グレイディ委員会 Grady-Morrison Committee)を開き、バルフォア宣言や委任統治決議以上の権限のユダヤ人国家の創設、アラブ・ユダヤ連邦を結成というモリソン・グレイディ案を出してロンドンで和平会議を開こうとしたが、ユダヤ人側はこれを議論の土台にすることを拒否し、出席も拒んだ。