摘要ノート「資本論」(序1)

序文および後記

第一版序文

この著作で私が研究しなければならないのは、資本主義的生産様式であり、これに対応する生産関係と交易関係である。

資本主義的生産の自然法則から生ずる社会的な敵対関係の発展度の高低が、それ自体として問題になるのではない。この法則そのもの、鉄の必然性をもって作用し自分をつらぬくこの傾向、これが問題なのである。産業の発展のより高い国は、その発展のより低い国に、ただこの国自身の未来の姿を示しているだけである。

(厳正な社会統計があれば、われわれはわれわれ自身の状態に恐れおののくであろう。(ペルセウスの頭巾で怪物の存在を否定し去ることができるだろう)これらのことについて、自分を欺いてはならない。十八世紀のアメリカの独立戦争がヨーロッパの中間階級のために警鐘を鳴らしたように、十九世紀のアメリカの南北戦争はヨーロッパの労働者階級のために警鐘を鳴らした。

イギリスでは変革過程は手にとるように明らかである。この過程は、ある高さまで進めば、大陸にはね返ってくるにちがいない。それは、大陸では、労働者階級自身の発達の程度によって、あるいはより血なまぐさい形で、あるいはより人間的な形で進むであろう。・・今日の支配階級は、労働者階級の発達を妨げる障害のうちで法律によって処理できるいっさいののものを除去することを、まさに彼らの自身の利害関係によって命ぜられているのである。それだからこそ、私は、ことにイギリスの工場立法の歴史、その内容、その成果には、本書のなかであのように詳細な叙述のページをさいたのである。一国は他国から学ばなければならないし、また学ぶことができる。たとえ一社会がその運動の自然法則を探り出したとしても、――そして近代社会の経済的運動法則を明らかにすることはこの著作の最終目的である――、その社会は自然的な発展の諸段階を飛び越えることも法令で取り除くこともできない。しかし、その社会は、分娩の苦痛を短くし緩和することはできるのである。

起きるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。資本家や土地所有者の姿を私はけっしてばら色の光のなかに描いてはいない。しかし、ここで人間が問題にされるのは、ただ、人が経済的諸範疇の人格化であり、一定の階級関係や利害関係の担い手であるかぎりでのことである。経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える私の立場は、ほかのどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとすることはできない。というのは、彼が主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係の所産なのだからである。

北アメリカ合衆国副大統領ウェード 「奴隷制の廃止のつぎには資本関係と土地所有関係との変化が日程にのぼるだろう」 これこそは時代の兆候であって、紫衣(王権)でも黒衣(宗教)でもそれをおおいかくすことはできないのである。この兆候は、明日にも奇跡が現れるだろう、ということを意味してはいない。それが示しているのは、現在の社会はけっして固定した結晶体ではなく、変化することの可能な、そしてつねに変化の過程にある有機体なのだという予感が支配階級のあいだにさえ起こりはじめているということである。